2017年2月23日

映画通信簿№30:『沈黙 -サイレンス-』

・マーティン・スコセッシ『沈黙 -サイレンス-』

 (2016年、アメリカ)★③

 

 

 宗教をモチーフにした物語を映像化したからといって宗教的な映画作品になるわけではないとしたら、映画の宗教性についてはどう考えたら良いのであろうか?

 

 

 今回紹介する映画は、マーティン・スコセッシ監督作品『沈黙 -サイレンス-』です。

 まだまだ絶賛上映中なのでご覧になった方もかなりいらっしゃるかと思われます。(公式サイトはこちら。http://chinmoku.jp/

 

 私は以前、フランスの映画作家であるロベール・ブレッソン監督の『少女ムシェット』(1967)という作品を取り上げて、「映画の宗教性」というものを考えるとすればどのようなアプローチが可能なのかについて、「ホラー」という概念との関わり合いで考察し、拙い出来で恐縮ですが論文にしたことがあります。(ここからPDFファイルで読むことができます。http://nirc.nanzan-u.ac.jp/ja/publications/kenkyushoho/

 

 ちなみに、この『少女ムシェット』はジョルジュ・ベルナノスの小説を原作としているのですが、ベルナノスはフランソワ・モーリヤックと同時代人で代表的なカトリック作家と言われており、『沈黙』の原作者である遠藤周作は両作家の熱心な読者であったことでも知られています。(モーリヤックの『テレーズ・デスケルウ』には遠藤が「一心同体となって」達成したとされる訳業があります。)

 また、ブレッソンには『ムシェット』より以前に『田舎司祭の日記』(1950)という作品があり、こちらもベルナノスの代表作を原作としています。そのため、ブレッソンもかなり頻繁にカトリック作家と言われることのある映画監督なのですが、この辺りの細かい話は後述することにします。

 

 すでにご覧になった方は、なぜこの作品が★③になのかと疑問に思うのかもしれませんが、そのことに対して釈明するためには映画と宗教をめぐる問題について、いつもよりほんの少し真面目に取り組まなければならないようです。

 とは言え、いつもの通りこの記事についても私のホラー研究と個人的な問題関心に基づいてオススメ度を設定しておりますので、興味のある方はあくまで数多くある意見のうちの一つであることをご了承いただけたらと思います。

 

* * *

 

 今年に入ってから毎回同じパターンになっておりますが、まずは簡単に思いつく限りで映画じゅずつなぎをするところから入ることにします。

 

 つい先ほども言及したように、映画と宗教の問題を考える上でロベール・ブレッソン監督作品はおそらくどれももっとも重要な参照項になるはずです。

 『田舎司祭の日記』や『少女ムシェット』は言うまでもなく、『ジャンヌ・ダルク裁判』(1962)やミヒャエル・ハネケ監督作品『セブンス・コンチネント』(1989)に多大な影響を与えた『バルタザールどこへ行く』(1964)などにはあからさまな「キリスト教らしさ」が見出せるでしょうし、『抵抗(レジスタンス)-死刑囚の手記より』(1956)と『スリ』(1959)、遺作『ラルジャン』(1983)に至るまで、「脱獄」「スリ」「連続殺人」などのモチーフを取り扱っても、見る人が見ればやはりそこに「キリスト教らしさ」がはっきりと見出せるように仕組まれていると言えそうです。

 ちなみに、そうした映像における「キリスト教らしさ」から独立した「映画の宗教性」を考えるとしたらいかにして可能かというのが先ほどの論文の問題でした。

 

 映画と宗教というテーマだと、どうしてもこのような「キリスト教らしさ」を脱色することは難しくなるのですが、カール・Th・ドライヤー監督作品の『裁かるゝジャンヌ』(1928)もまた宗教映画の代表作としてよく言及されます。

 またイングマール・ベルイマン監督作品には、今回紹介の『沈黙』と同じ「神の沈黙」をテーマにした三部作、『鏡の中にある如く』(1961)、『冬の光』(1962)、『沈黙』(1963)がありますが、前回の映画通信簿で名前を挙げた『処女の泉』(1960)などもこの流れで言及されることのある作品です。

 

 もちろん「キリスト教らしさ」を見いだせる映画作品を挙げていてもキリがないので、もっともっと詳しく知りたい人は、ポール・シュレイダー『聖なる映画』(山本喜久男訳、1981年)などを参考にしてみてください。

 トリヴィアルな話題ばかりで恐縮ですが、宗教映画の研究を本にしたシュレイダーがスコセッシ監督の名作『タクシー・ドライバー』(1976)の脚本家であるというのは決して偶然ではなく、二人の信仰心という問題と絡めて見るべき部分もあるようです。

 

 

 ごく私的な感覚で言えば、私の大好きなアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督作品、特に『恐怖の報酬』(1953)や『悪魔のような女』(1955)はこのテーマから考えてみたら面白いと思いますし、アルフレッド・ヒッチコック監督作品ならばホラーである『サイコ』(1960)や『鳥』(1963)よりもむしろ、ブラック・コメディである『ハリーの災難』(1955)の方に強烈にこのテーマを感じるのですが、なぜかはまだ考えたことがありません。

 

 近作でしかもキリスト教的でない宗教映画ということであれば、「ホラーのミ・カ・タ」では何度も言及してますが、ここでは真っ先に『神々のたそがれ』(2013)と『彷徨える河』(2016)を挙げたいと思います。

 もしかしたら宗教学的な問題関心に一致するという点で私には「宗教映画」に見えるのかもしれませんが、この二作は本当に手放しでオススメです。(『神々のたそがれ』の記事はこちら。https://horrornomikata.blogspot.jp/2015/09/3.html

 

 

 本当にただの思いつきの羅列のようになってしまって恐縮ですが、このように映画と宗教については考え出すとキリがなくなるので、この辺でお終いにします。

 

*以下ネタバレする記述があります。見る予定のある方はお気をつけください。

 

 さて、以下においてはスコセッシ監督作品『沈黙』を取り上げたいのですが、まずは話の取っ掛かりとして、公式サイトから「ストーリー」を引用してみます。


17世紀、江戸初期。幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教 (信仰を捨てる事)したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは 日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。


日本にたどりついた彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた“隠れキリシタン”と呼ばれる日本人らと出会う。それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し、キチジローの裏切りにより遂にロドリゴらも囚われの身に。頑ななロドリゴに対し、長崎奉行の 井上筑後守は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る。そして次々と犠牲になる人々―


守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは―

 

 なんの論証もなしにいきなり結論から入ってしまいますが、『沈黙』がなぜ宗教性を帯びた映画作品にならなかったと言いたいのかというと、そこではホラー的な要素がほとんど意味をなさなかったからだと私は確信しています。

 

 もちろん拷問のシーンがありますし、苦悩のシーンもあります。もしかしたら共感的に感情移入することで辛い思いをなされた方もいらっしゃるかもしれません。

 しかし、「痛み」を「痛そうな場面」として映像化したからといって、それが「痛み」の映画体験になるかというと、なかなかそう簡単にはいかないようです。

 

 私はそのように共感的に鑑賞するスタイルを否定しようとしているわけではもちろんありません。「痛そうな場面」を見て、実際に「痛み」を受けている登場人物ではなく、その場面の「居たたまれなさ」へと観客の共感を誘導するような別の登場人物の介入が、「痛み」そのものへの眼差しを逸らすだけでなく、その「痛さ」を欺瞞的に隠蔽することになりはしないかと、この場合に関して懸念しているだけなのです。

 それでは決してホラー作品にはなり得ませんし、宗教的であるはずの細部も無為なものに終わりはしないかと言いたいのですが、それはいったいなぜなのでしょうか?

 

 ちなみに、映画で正真正銘の「痛み」を体感したい方にはパスカル・ロジェ監督作品『マーターズ』(2008)が最高傑作でオススメです。これは、「殉教者たち」というかなり意味深長なタイトルを持つというだけでなく、映像体験としての「痛み」の追求が宗教性と結びつくと言う点においても稀有な作品で、後述になるジョルジュ・バタイユというフランスの思想家の本である『エロスの涙』へのオマージュが見受けられるようです。

 

 

 私は『沈黙』の冒頭の、フェレイラ神父の目の前で「キリシタン」の人びとが火あぶりになっていくシーンで、いくつかの「ジャンヌ・ダルクもの」の作品のラストが火あぶりで終わることを思い出していました。そのなかには肉が剥げ落ち頭蓋骨が露出するまで焼かれるジャンヌを凝視し続けるような演出を持つものもあります。

 問題は肉が剥げ落ちたからホラーになるわけではなくて、肉が剥げ落ちるまで凝視しなければならない映像体験にホラーの可能性があるということです。

 それはたとえかつてのような映像技術で肉が剥げ落ちるシーンがあからさまに作り物に感じられるとしても、肉が剥げ落ちるところを最後まで凝視することになる映像のロジックに潜むホラーの可能性がそれで減じることはありません。

 

 また私は、すでに棄教を宣言して「転びキリシタン」となった人びとがガルぺ神父の目の前で簀巻にされたまま船から蹴り落とされていくシーンを見て、ミヒャエル・ハネケ監督作品『ファニー・ゲーム』(1997)の似たようなシーンを思い出しました。

 ハネケの方では「ドボン」という音にあんなにもドキリとさせられたのに、『沈黙』では少しもしなかったので、それはなぜなのだろうと鑑賞後に考えておりました。

 もちろん音響の効果もあるでしょうし、物語の展開もあるでしょう。ただ、そこまでの強度のテンションにならなかったのは、もしかしたら監督の善意で、観客に直接的に嫌悪感を惹き起こすことが創作の動機づけになっていないからなのかもしれません。(前回の映画通信簿とつながりましたね。)

 ちなみに『ファニー・ゲーム』は、私の知る限り最高純度の「嫌シネ」ですので、この記事を読んでご覧になる方は本当にお気をつけください。(『ファニー・ゲーム』の紹介記事はこちら。https://horrornomikata.blogspot.jp/2015/08/1_16.html

 

 

 この流れで一箇所だけ遠藤周作の原作小説から引用をしてみたいのですが、以下は主人公のロドリゴ神父が苦闘の果てに踏絵をすることになる場面です。

 

 司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。

 こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。(『沈黙』268頁)

 

 映画では、踏絵から「踏むがいい」というせりふが音声で発せられていました。この原作の記述で間違いなく「言った」と書いてあるので、それを文字通りに映像化したということなのでしょうか?

 しかし、よく見るとここにはかぎ括弧がついていません。ここでの「自由間接話法」の使い方は、主語が「主」であることを語り手が明示したことで問題提起になっており、文学研究としても非常に興味深いところだと思います。

 ただ宗教研究として見た場合、「神の沈黙」という最大のテーマとの関わり合いで、この話法の問題点をまた別の方向から議論にできそうですが、私の方の準備不足もあって『沈黙』の英訳をまだ確認していないため、残念ながらここで深く立ち入ることはできません。(ところで、これも「痛み」の宗教性に関わる問題になりそうです。)

 

 映画の話に戻りますと、この「主」の「踏むがいい」というせりふを本当に音声として発してしまって良かったのかという問題は検討の余地がありそうです。

 小説の映像化のプロセスを考えた場合、観客の誰もがそう言っているように見えるシーンとして映し出すことの方がより重要だったのではないかと、私は個人的に思います。それは、『沈黙』の映画体験が「宗教的なもの」として感得される可能性があるとしたら、そこに賭けるしかないと考えていたからでもあります。

 後述するように、それを例えば「キリスト教らしさ」に基づいてどのように解釈するかは観客一人ひとりの受け取り方次第ということになるのでしょう。(上記したことと関連しますが、「回心のロジック」については書評サイトで記事にしたことがあります。もしよろしければご覧になってみてください。https://shimirubon.jp/reviews/1679150

 

 

 ここまで断りを入れておりませんでしたが、私は何も遠藤周作の原作小説を映像化するに当たって、私がここで言おうとしている「映画の宗教性」を追求しなければ意味がないなどと言いたいわけではまったくありません。

 映画化にはさまざまな可能性があるわけですから、この記事の内容は、その一つとして「映画の宗教性」という方向性から考えて見るとどうなるかという一つの提案だと思っていただけると幸いです。

 

* * *

 

 ベルナノスの小説を映像化するときに、ブレッソンは物語をなぞるのではなく、映画のワン・シーン毎に何ページ分もの小説の記述を凝縮したと言われています。

 本当にそれが達成できているかどうかを検証するのはまた別の問題になりますし、繰り返しになりますがそれが唯一の「正しい」映像化の可能性だと言いたいわけではありません。

 

 そのようにして、ベルナノスの小説の物語ではなく宗教性を映画という芸術形式で表現しようとしたブレッソンという先達の仕事を視野に入れることによって、間違いなく「映画の宗教性」に関する創作と批評の奥行きが広がるはずなので、そのような先達の偉業を微力ではありますがここで称揚しておきたいと思っているだけなのです。

 映画作品が完成された芸術としての崇高さを帯びるようになったときそこには自然と「映画の宗教性」と呼ぶべき体験が現象するにようになる、というのがブレッソン自身の発言を参照しながら『少女ムシェット』についてホラーという観点から見ていくことで出てきた、当然と言えば当然の帰結です。

 映画の細部がホラーなものであるということこそが、そこで崇高なものと観客の媒介となっている映像体験を基礎づけるロジックの根拠となっているということです。

 

 

 この記事の舌足らずな部分は論文を読んでいただけるとありがたいのですが、結果として『少女ムシェット』がただ単に「キリスト教的」であるだけでなく、さらに果てしなく「宗教的」であるのは、それがホラー的な細部によって構築されているからです。

 映画が「宗教的」であるということをキリスト教文化圏の解釈格子あるいはバイアスを通して捉え直すことで初めて「キリスト教らしさ」として説明できるようになっているのであって、そもそも作品がキリスト教的だと考えるのは論点先取の誤謬であることを疑うべきではないのか、と私は思っております。

 そしてこの点は、先ほど上の方で紹介したシュレイダーの『聖なるもの』がブレッソンのキリスト教らしさをもっとも強調している先行研究の一つでもあるのですが、それと真っ向から対立するところでもあります。

 

 もっと言えば、私がこのように考える根拠というのは、ジョルジュ・バタイユが『内的体験』のなかで指摘したように、これまで神秘体験と呼び習わされてきたようなある種の体験を、キリスト教に還元するのではなくただ単に「内的」と呼ぶべきであると指摘した内容から着想を得ていることも言っておかなければなりません。 

 バタイユの記述に関してはそれこそが神秘家の言であるとしてサルトルから批判を受けたという経緯も実際にあるのですが、「映画の宗教性」という言葉の使い方にはそのような前提があるということだけを、ごく手短にですが言い訳をしておきます。

 もちろんこれが、バタイユの用法とも一致していないことも承知しております。

 

 

 ここまで書いてみて本当によくわかりましたが、スコセッシ監督作品『沈黙』の宗教性をどう捉えるかという問題は、とても今回の記事だけで手に負えるような代物ではありませんでした。

 遠藤周作の原作との比較、スコセッシが読んだという英訳との比較、そしてここまで何度も言及しているブレッソン×ベルナノスの諸作品との詳細な比較検討という作業が、まだまだ見果てぬ先まで山積みになっています。

 

 そのため今回は、研究ノートを作る前段階の備忘録のような、たいへん物足りない記述に終始してしまいました。

 この問題に関しては、またいつか別の機会に詳しく論じ直してみたいと思います。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

宗教を扱ったふつうの映画と、見ることで宗教的な体験ができそうな映画とありますよね。沈黙は前者なのではないでしょうか。英訳者はWilliam Johnston というイエズス会の上智大学教授でした。日本での宗教間対話の先駆者です。Mystical Journeyという短い自伝で、この翻訳が内容のゆえに辛かったことと、過去にもどったらもう一度できるかどうかわからないというようなことを書いていました。私はどうも遠藤周作がすきになれないのですが、映画のほうは、キチジローが窪塚と分かったところでなんか違うなと思って、まだ見ていません。ちなみに窪塚は好きです。ただ、眼力が強すぎるような。私のキチジローのイメージは、アイヒマンみたいなかんじで、無表情の演技がうまい、ふつうにみえるんだけど、なんか気持ち悪い演技ができるひとが良かったんじゃないかと思いますが、どう思われますか?
ちなみに、遠藤もこの映画もあまり好きではないのは、パラドックスを提示していそうで、じつは自分は答え(というか、むしろ問い?)がわかっていると思っている人が書いたり撮ったりしていそうだからです。でも、こうやってわざわざ言わないと気がすまない自分はむしろ遠藤が「すき」なのかもしれません。

斎藤喬(SAITO Takashi) さんのコメント...

英訳者の情報などたいへん貴重なコメントをどうもありがとうございます。
お返事が長大になってしまってすいません。

確かにおっしゃる通りで、宗教映画を二種類に分けたとき『沈黙』は前者の「宗教を扱ったふつうの映画」だったのかもしれません。
ただ、個人的には、冒頭の火炙りのシーンであったり、簀巻にして舟から落とすシーンであったり、ラスト近くの穴吊りのシーンであったり、とかくホラーを掠める演出がどうしても気になってしまったために、シアターで見たときの感覚を失う前に勢いで上のような記事を書きました。
たぶん、こうした見かけ上のホラーっぽさを突き抜けて、映画を宗教的な体験と結びつける気がないように見えたために、その態度が個人的にはものすごく偽悪的に思えてしまったのだと思います。(一部のジャンル・ホラー映画はこのことをネタでやっているためにギャグに見えるわけですが。)
この映画に関しては、何と言いますか、拷問のシーンが単なるホラーっぽさで終わっていて、そこで本当に描き出すべき「おぞましさ」からあえて目を逸らすことが慎ましい美徳であると見せかけるような身振りに欺瞞さを覚えたというか、そんな感じでしょうか。
もちろんそれが本当にそうかどうかはもっときちんと検証する必要があるのですが、これはごく私的な感想です。

キャスティングに関しては、どうなんでしょう?難しいですね。笑
スクリーンでのキチジローは、初登場のシーンから何か大きいなというのが私の印象でした。とりあえず「小男」のイメージではないなという。
コメントでお書きいただいた内容ですと、『ヒミズ』の染谷将太さんなどが近いのではないかなと勝手に想像しましたが、外れてますかね。

それから、英訳者のお話を受けて、いわゆる「キリスト教文学」における宗教性は翻訳可能かという問いは本当に興味深いなと思いました。
メディアとしての文学における宗教性の体験や、原語及び訳語のロジックに基礎づけられた宗教性の表現などをめぐる諸問題は、私の場合は全てホラーであることと結びついてしまうのですが、これはたいへんに面白いお題で、視点の取り方によってはいろいろと研究の余地がありそうです。

最後の部分は、遠藤周作の小説も映画『沈黙』も「あまり好きではない」という仕方で好いていることを発見した、というそれ自体がたいへん逆説的なご感想になっているのだとお見受けしました。ちょっと複合的(コンプレックス)な好意でしょうか。笑

卑近な例で恐縮なのですが、ふと、学生時代に「あまり好きではない」けど気になるあの子みたいなクラスメイトって確かにいたな、と思い出しました。それはたぶん「きっかけがあれば好きになるのに」っていう感情的関心の現れだったんだろうなと今にして思えば解釈できますが、そういう子ってきっと何か持ってるんでしょうね、自分の欲しがっているものを何か。(私があの子を気にする理由、これが問いの答えでしょうか?それとも答えの問いでしょうか?)
そんな気がします。

結局いつまでも「きっかけ」が見つからずに本当に好きにならない可能性もかなりあると思いますし、下手をすると大嫌いになる可能性だって当然あると思いますが、「もう気にならないな」と諦めがつくまで気になったものにとことん付き合ってみるのも一つの方法かもしれませんよ。
文学にしろ映画にしろ。

匿名 さんのコメント...

御返事をありがとうございました。
拷問シーンについておっしゃってくださったことに、すごく納得がいきました。とくに、欺瞞、という言葉です。
キチジロー、染谷将太さんだったらきっと観に行ってました。あと、柄本時生さんなどはどうでしょうか。本を読んだときに、このキャラクターの直接的な感情描写がなく、本当はなにを考えているのかわからないところが、とても印象的でした。
遠藤周作の著作は読むたびにいらいらするので、なにか特別な思いがあるのだと思います。

斎藤喬(SAITO Takashi) さんのコメント...

こちらこそ、お返事をどうもありがとうございます。
共感していただけたようで、良かったです。

柄本時生さん、いいですね!
時代劇映えするのでキチジローのキャラともマッチしそうな感じで興味深いです。

ところで、いらいらするために本を読もうというのではあまりモチベーションが上がらないかもしれませんが、なんでいらいらするのかを知るために読んでみようというのは意外と生産的な経験になると思いますので、特に遠藤周作に縛られずとも、試しにいろいろと冒険をしてみると良いのではないでしょうか。
ぜんぜん関係ないところで、ふとした拍子に特別な思いの真相が掴めるということもありますよ、きっと。