2017年1月26日

映画通信簿№28:『ワイルド わたしの中の獣』

・ニコレッテ・クレビッツ『ワイルド わたしの中の獣』

 (2016年、ドイツ)★③

 

 どこまで行っても散文的な世捨て人の世界。

 あまりにも俗っぽい「動物らしさ」の果てにある現実との葛藤。

 

* * *

 

 今回紹介するのは、ニコレッテ・クレビッツ監督作品である『ワイルド わたしの中の獣』です。

 上映館がかなり少なそうですが、まだこれからのところもけっこうあるのでこの記事を読んで興味を持っていただけると幸いです。

(公式サイトはこちら。 http://www.finefilms.co.jp/wild/

 

 個人的にはいい意味でわりと「へんな」映画だと思うのですが、どこか物足りなさが残るのでそのあたりをについて思いついたことを書いてみようと思います。

 

 

 さて、今回も思いつく限りで映画じゅずつなぎをマクラにしていきます。

 

 まず、テーマの類似に加えて邦題のつけ方からして意識しているように見えるのは、ヨナス・アレクサンダー・アーンビー監督作品『獣は月夜に夢を見る』(2014)です。

 この作品に、私は映画通信簿2016年6月総集編で★④をつけておりますが、ホラー文化史的には「狼女」、精神医学的には「獣化妄想」と呼ぶべき事態が北欧の地方の港町で起こるとどうなるかいう、民俗的かつ幻想的な美しい映画でした。

(公式サイトはこちら。http://kemono-yume.com/

 

 あるいは語呂的に近いものにジム・トンプスン『おれの中の殺し屋』という小説もあります。これを原作にしてマイケル・ウィンターボトム監督が『キラー・インサイド・ミー』(2010)という秀逸なサスペンスを撮っていますが、これは文句なしにオススメ度★⑤ですよ。

 

 また、先述の『獣は月夜に夢を見る』は19歳の「少女」(公式サイトの表現)の成長物語でもあるわけですが、そういう部分では中村研太郎監督作品『フリーキッチン』(2013)とそこはかとなく共通点があると言えるかもしれません。

 『フリーキッチン』はいわゆる「狼男もの」ではなく「カニバリズム」がテーマの映画になりますが、「獣化」するという自覚(症状?)があるかないかは別にして「人を喰らう」という筋書きには重なるものがあります。

 

 

 そこから、いわゆる正真正銘の「狼男もの」として、比較的近年ではベニチオ・デル・トロとアンソニー・ホプキンスが共演した『ウルフマン』(2010)が話題になりました。

 これ自体は『狼男』(1941年)のリメイク作品ということになっていますが、精神病院におけるなかなか壮絶な水治療の場面などがあり、迷信的な「狼男」を科学的な「獣化妄想」として根絶しようとする医師たちの振る舞いが暴力として描かれています。

 

 さらにこの流れで「獣」つながりの作品をもう一つだけ挙げるとしたら、エミール・ゾラの名作『獣人』(1890)を忘れるわけにはいきません。

 これは「西村京太郎サスペンス」的な鉄道ミステリーの古典としてもたいへん名高い作品ですが、タイトルにある通り「獣じみた人間」と言うべきか「人間の皮を被った獣」と言うべきか、衝動殺人を繰り返す主人公をそのように表現しています。

 そのためここには実際に「狼男」は出ませんが、ある意味で高度に心理学化された広義の「狼男もの」になるのではないかと私は考えています。

 ちなみにこの小説は、ジャン・ルノワールがジャン・ギャバンを主演に『獣人』(1950)として映画化していますので、これもやはり映画じゅずつなぎになっています。

 

 

 ジャンル映画からは少しばかり外れているようですが、『ワイルド』もかなり変化球に見える作品なので、こんな感じで紹介してみました。

 

*以下ネタバレする箇所があります。見る予定のある方はお気をつけください。

 

 『ワイルド』についての話に入るきっかけとして最初に物語の要約をしたいのですが、今回はパンフレットの監督インタビューから引用してみます。(頁はありません。)

 

Q:『ワイルド わたしの中の獣』はどのような映画ですか?

主人公アニアは仕事へ向かう途中、マンションの前に広がる森で一匹のオオカミと出会います。この’野性’との出会いが彼女の中の’何か’を目覚めさせます。それは彼女が仕事や家族との生活の中で狼に逢いたくて、彼を待ち、餌で釣ろうとしますが、次第にハンターと化していきます。そして、麻酔で意識を失ったオオカミを連れて帰り、彼女の住むマンションに閉じ込めます。彼女は次第に野性化していき、全ての物事において野性的なアプローチを始めます。そして、その変化を彼女の周りの人間、特に彼女の上司ボリスは楽しんでいるように見えます。日常から解き放たれたいと切望する彼女の想いに周りが惹きつけられていくのです。

 

 もちろんこの言葉を頭から信じる必要はまったくないのですが、この映画の魅力の一つとして、このようにして監督が描こうとしているものと実際のシーンで映し出されているものとの齟齬が、物語と観客の間に絶妙な距離感を創り出している気がします。(インタビューにはこの方向からの作品構想がこれでもかと語られています。)

 

 ところで、ここで言っている「野性化」に従ってアニアが何をするかと言えば、飼っているオオカミといっしょに生肉を喰らってみたり、下着にコートだけで出社してみたり、自分の経血をオオカミに舐めさせる夢想をしてみたり、勤め先のビルの清掃人たちを誘惑してオフィスで行きずりの関係を結ぼうとしてみたりという具合ですので、個人的には「野性化」からは二歩も三歩も隔たっているのではないかと思ってしまいました。

 ちなみに「野性化」エピソードはまだまだありますので、この他は見てのお楽しみにしてください。また、ラストに至って本当に「野性化」したかどうかは観客の判断に委ねられているのだろうということも、とりあえずひと言付け加えておきます。

 

 また、物語には同居していた祖父が危篤であるという設定もありますので、アニアの突飛な行動を、そのことに対する「喪の仕事」であると捉えようとすればできる仕掛けにもなっています。あるいは、祖父が不在となることによって彼女に本来備わっていたはずの「野性」が呼び覚まされたという、監督の意見に寄り添う方向での解釈も可能と言えば可能に見えます。

 いずれにせよ心理学的な読みを誘導する文脈もここにはきちんと用意されていて、その点においてはいかようにも考えることができそうです。パンフレットで指摘されているように、全てが彼女の妄想だという可能性だって選択肢の一つかもしれません。

 

* * *

 

 ただ、冒頭の惹句で示したように私は「散文的な世捨て人」というテーマでこの作品を考えたいと思っておりますので、以下ではその点について触れていきます。

 

 ところで、私が獣として生きる「世捨て人」と言って、最初に思いつくのは、思春期に繰り返し読んだ手塚治虫『ブッダ』に出てくる「ナラダッタ」という登場人物です。

 (参考サイトはこちら。http://tezukaosamu.net/special/buddha/character.html

 

 このサイトによると、彼は多くの動物の命を犠牲にしてしまった罰を受け、生きながら「畜生道」に身を落とし「けもの同然に荒野をさまようことになる」とあります。

 最後に読んだのがおそらく十何年も前なので詳しい筋書きは覚えておりませんが、「目もつぶれ口もきけず、四つ足で山野を歩きまわる」ような「けだもの」として生きることになったこのキャラクターの登場は、当時の私にとってきわめて衝撃的でした。

 

 また今になってみれば、この流れでヒンドゥー教の伝統的な聖者である「サドゥー」を連想したりもするのですが、残念ながら『ブッダ』の苦行僧ナラダッタと「サドゥー」との間にありそうな深い関連性について私は説明することができません。

 (現代のサドゥーのニュース映像。http://www.afpbb.com/articles/-/3114120

 

 

 さらにこの流れで連想ゲームを続けるとすれば、映画通信簿2016年11月総集編で★④をつけた『神聖なる一族24人の娘たち』(2012)という映画には衣服を身につけず森をさまよい人びとに呪いをかけたりする「魔女」のような存在が登場します。

 (映画の公式サイトはこちら。http://24musume-movie.net/

 

 この作品は、ロシア領内にあって独自の文化と言語を持つマリ・エル共和国の自然崇拝に基づいた民間伝承に着想を得て制作されているとのことですので、専門家ではない私には残念ながら深めて解釈することができません。

 ただこちらについてもまた、地域的なつながりから、「佯狂者」または「聖愚者」とも訳されるロシア正教会の苦行者である「ユロージヴイ」を連想してしまいます。

 

 「サドゥー」にしろ「ユロージヴイ」にしろ、ある特定の宗教文化において聖者を意味するということのようですが、別の視点からだと都市社会から逸脱し野山で生活する散文的な世捨て人のようにも見えます。

 

 

 ここまで書いてきて結局何が言いたいのかと言えば、『ワイルド』におけるアニアの「野性化」について、「聖性」というファクターを入れて考えると面白いのではないかと勝手に夢想しているということなのです。

 

 「獣化妄想」は別名「狼化妄想」とも呼ばれるくらいで、ここにはヨーロッパの思想史においてオオカミという動物が担う象徴的な意味と関連があります。

 また上記したように一見してかなり広範に見られるようですが、「野性化」して荒野に生きることが聖なるものを表わすという伝統的な意味づけ方もあります。

 

 つまりないものねだりとは言え、監督インタビューにおける発言がどこまで行っても近代的な社会と文明の側からしかアニアの振る舞いを意味づけていないように見え、そのためにかなり深みのあるこのテーマについてもったいなくも一面的なアプローチになってしまっているようにも見えて、一観客として釈然としないものが残ったというのが私の率直な感想なのです。

 この点、じゅずつなぎで紹介した『獣は月夜に夢を見る』も『ウルフマン』も、民俗的な文化と科学的な医療との葛藤が問題になっているところにたいへん心惹かれます。

 

 

 もっと具体的に言うならば、アニアの「野性化」を現代社会から離脱して「シャマン」(または「シャーマン」)になるための成巫過程として捉えることができると宗教学的には非常におもしろいのに残念だなということでもあります。

 捕獲した狼の世話をしながら心を通わしているようにも見える場面がありますが、『ワイルド』の物語にはそうである証拠もそうでない証拠もなさそうですので。

 またしてもジェネレーションに縛りがありますが、あの「ナコルル」という格闘ゲームのキャラクターが、アイヌの「巫女」でしかも「狼」を連れているという設定があることを急に思い出して、戯画化されているとは言えなんて周到なのだと感心してしまいます。

 

 

 というところで、いつものように取りとめもないまま締めに入りますが、ここに書いたようなことは一つの読みに基づいた「物足りなさ」の表明になっております。

 

 こんなことを一般化する必要はまったくないのですが、何だか物足りない映画の「物足りなさ」をできるだけ証拠立てて考えてみると、見過ごしていた重大なファクターに気づくこともありますので、今回の記事が一つのケース・スタディ(「素描」というような意味で)になればといいなと思います。

0 件のコメント: