2017年1月18日

映画通信簿№27:『ニーゼと光のアトリエ』


・ホベルト・ベリネール『ニーゼと光のアトリエ』

 (2015年、ブラジル)★④

 

 言葉などなくても、人は思いを動きで伝えられる。

 たったそれだけの自由が生活を驚くほど豊かにする。

 

* * *

 

 なんとほぼ三ヶ月振りとなる映画通信簿なのですが、今回紹介するのはホベルト・ベリネール監督作品『ニーゼと光のアトリエ』です。

 

 これから上映するところもまだかなりあるはずなので、気になっている方はぜひ見に行くことをオススメします。

(公式サイトは以下の通りです。http://maru-movie.com/nise.html

 

 

 以下では、まず映画じゅずつなぎとして思いつく作品をいくつか紹介してみます。

 

 映画ジャンルには、おそらく「精神病院もの」と言っても良さそうな一群の作品がありますが、そこからさらにヒューマン系とホラー系に分かれるような気がします。

 

 前者でまず筆頭としてとりあえず思いつくのは、やはりミロス・フォアマン『カッコーの巣の上で』(1975)でしょうか?

 ドキュメンタリーでまず重要な作品としては、ワン・ビン『収容病棟』(2013)がありますし、日本の作品であれば想田和弘『精神』(2008)があります。

 

 近作だと、ジュリオ・マンフレドニア『人生、ここにあり!』(2011)が、こちらはコメディ・タッチなのですが、テーマ的には今回紹介する『ニーゼ』にかなり近いと思います。

(公式サイトはこちら。http://jinsei-koko.com/

 

 

 また、後者のホラー系ですが、私の錯覚でなければ、数で言うとこちらの作品の方がかなり目につくようです。

  今年度初の★⑤をつけたサミュエル・フラー『ショック集団』(1963)もそうですし、古いところではマーク・ロブソン『恐怖の精神病院』(1946)もありますし、かなりマニアックなところではピーター・ブルック『Marat / Sade』(1967)なんていうものあります。(原題はものすごく長いので省略しています。)

 余談ですがこのピーター・ブルックの作品を澁澤龍彦が『スクリーンの夢魔』で称讃していたため、それでどうしても見たくなりつい英語版のVHSを取り寄せたというほろ苦い思い出が私にはあります。

 

 近作であれば、ブラッド・アンダーソン『アサイラム 監禁病棟と顔のない患者たち』(2014)というのがありました。

 去年の8月に「カリコレ」でこの作品を見て私は★③をつけたのですが、ここで他に挙げた作品と比べると個人的にオススメ度はあまり高くありません。

 

 というのも、これはエドガー・ポオの短編小説『タール博士とフェザー教授の療法』を原作としており、実はこの作品は、私が博士論文で取り扱ったフランスのホラー演劇グラン・ギニョルでも代表的な戯曲となっており分析を試みたことがあるからです。

 なので、予備知識がなければ気にならなかったかもしれないのですが、テーマ設定の根本的なところでかなり違和感を覚えてしまったため評価が辛くなりました。

 逆に言えばホラー度が低いので、ジャンル映画として見る分には問題ないかもしれません。

 

 

 さらに連想ゲーム的に変化球を投げると、画家セラフィーヌのクリエイティヴィティの霊感源を描き切ったマルタン・プロヴォスト『セラフィーヌの庭』(2008)は、かなり本質的なところで『ニーゼ』に接近する作品になってくると思います。

 そしてまた、イェジー・カヴァレロヴィッチ『尼僧ヨアンナ』(1960)などは「修道院もの」という別ジャンルになるかもしれませんが、先ほど紹介した『恐怖の精神病院』の原題が「ベドラム」で、そのモデルが実在する元修道院の精神病院だということを思うと、各国によって事情は違うのでしょうが、修道院と精神病院の社会的な機能についての深い関連性を想起せずにはいられないという点でもつながってきます。

 

 この流れでクリスティアン・ムンジウ『汚れなき祈り』(2013)に触れておくと、もちろんこの物語にはルーマニアの特殊な状況もあるはずなのですが、現代社会においてもまだどこかでつながってきてしまう、修道院と精神病院の間にある文化史的な因縁のようなものを垣間見ることができるのではないでしょうか。

 

 ずいぶん長くなってしまいましたが、以上が私の思いつく限りでの映画じゅずつなぎになります。

  

* 以下ネタバレする箇所があります。見る予定のある方はお気をつけください。

 

 さて、ここからが『ニーゼ』の話になりますが、実際のところ内容について詳述したりはいたしません。

 

 本当に素晴らしい作品なので、興味のある方にはぜひとも映画館に行っていただきたいからというのだけでなく、冒頭に書いた通り、この映画に出てくるいわゆる「患者」と呼び習わされていた人びとは、一般的なコミュニケーションにおける言語のロジックではなく、彼らなりの動きのロジックによって気持ちを伝えようとしているという発見が物語の鍵になっておりますので、そうした点においてもここには言語化を拒む部分があるから、というのがその主な理由です。

 

 物語としては、実在したブラジルの精神科医であるニーゼ・ダ・シルヴェイラ医師が、「患者」たち(彼女は「顧客」と呼びます)とともに過ごしながら、いかにしてそのことに気づいていくかに焦点が当てられていますので、その過程を映画体験として共有するために予備知識はむしろ邪魔になるだろうし不要だろうと個人的には思います。

 

 上記したように「行動化」されたものに対して「傾聴」という動詞を使っても良いものかどうか私にはわかりませんが、行動の客観的な「観察」というよりは、動作の共感的な「傾聴」といった態度で、ニーゼは勤め先の病院の精神医療を革新していきます。

 そして、この映画を見ていただくと、彼女の発見が1940年代にフランスで見出されることになる「アール・ブリュット」と同時代的なものであったことが確認できるのですが、これも後付けになるただのトリヴィアルな知識に過ぎません。

 

 

 最後にひと言だけ付け加えますと、言葉のロジックによっては伝えられない思いを、動きのロジックに従って伝えようとすることは当然のごとく誰にでもあることでしょう。

 

 例えば日本語の用法ですぐに思いつくものでも、怒りで肩を震わせたり、呆れて肩をすくめたり、がっかりして肩を落としたり、「肩」だけ見てもかなり表情豊かであることがわかります。それを見て、そっと肩に手を置くことだって私たちには可能です。

 もちろんこうした身体表現はもしかしたら言語と同じかそれ以上に文化的なもので、なおかつ個別的なものでしょうし、言語のように動きの意味を問いただすことが困難だとしたら、このように慣れないコミュニケーションにはそれなりの時間と訓練が必要になるに違いありません。

 

 ただ、相手には確かに伝えたい思いがあるのだから、自分には少なくとも聞く準備があると教えてあげるだけで、意思の不通という状況だけはずいぶんと改善できそうな気がします。

 ニーゼの時代のブラジルではこのように開かれた医師や看護師は皆無だったようで、彼らの言うことを聞くことのできない「患者」たちは暴力で抑圧されていました。

 

 体が表現する意味の豊かさにあらためて気づけると、もしかしたら自分が持っていた伝わらない、わからないという思い込みもほんの少し改善できるのかもしれません。

 

 そんな優しい映画です。

 

 

*2017年1月24日附記

 今ちょうど販売している『美術手帖』2017年2月号が「アウトサイダー・アート」の特集で、ニーゼのことは出てきませんが、美術史における「アール・ブリュット」の位置づけなどが概観できて非常に参考になります。

 ちなみに『この世界の片隅に』の片淵須直監督と精神科医の斎藤環さんの対談などもありタイムリーな内容です。

(公式サイトはこちら。 http://www.bijutsu.press/books/2017/01/-20172.html

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