2016年9月7日

映画通信簿№24:『ティエリー・トグルドーの憂鬱』

・ステファヌ・ブリゼ『ティエリー・トグルドーの憂鬱』

 (2015年、フランス)★⑤!!!

 

 失業した労働者が呑み込まれる市場の掟。

 資本主義社会が容赦なく放つボディ・ブローに私たちはどこまで耐えられるのだろうか。

 

* * *

 

 今回紹介するのはステファヌ・ブリゼ監督作品『ティエリー・トグルドーの憂鬱』です。

 

 原題は"La loi du marché"で直訳すれば「市場の法則」でしょうか。

 ただ、個人的には経済学的な「市場原理」よりもっとサバイバルという意味を込めて「野生の掟」のようなイメージを持ったので、ここではあえて「市場の掟」としました。(映画の詳細については公式サイトをご覧ください。http://measure-of-man.jp/

 

 この記事を見てネタバレする前に見に行こうという方のためにひと言だけ忠告をしておきたいのですが、これは見終わるとめちゃくちゃにむしゃくしゃする映画ですので、それだけは覚悟して臨んでください。

 私はもうあまりにも身につまされてしまい、その日はどこをどう帰ったものかほとんど記憶にありません。見ると実際にひどい目に遭う映画だと思います。

 

*以下ネタバレする箇所があります。見る予定のある方はお気をつけください。

 

 それでは最初に、例によって公式サイトからストーリーの冒頭一部を引用します。(以下は引用です。)

 

「研修を受けたのに、仕事がない」─ハローワークで職員に訴えているのは、ティエリー・トグルドー、51才。失業して1年半経つが、慣れないク レーン操縦士の研修を受け資格まで取ったのに、建築現場の経験ゼロという理由で雇われない。職に就けないような研修をなぜ勧めるのか、受給中の失業保険が 減額される9ヶ月後には、ローンの支払いで暮らせなくなるから、死ねというのか? と声を荒げるが、「履歴書作成のお手伝いと募集企業リストの作成しかしていません」と、職員は言い放つ。

 

ティエリーには障害者の高校生の息子と、夫に何一つ不満を言わない妻がいる。先が見えないティエリーにとって、家族と食卓を囲んでいる時がせめて もの憩いだった。工作機械の操作員として勤めていた会社に対し、不当解雇を訴えようと元の同僚たちが集まり話し合いを重ねてきたが、ティエリーには裁判と 職探しを両立する気力はもうなかった。「失業したことで心が裂けちまった」と言って、仲間から去っていく。

 

 もうこの冒頭のシーンで交わされるハローワークの職員とのやり取りから、主人公ティエリーは決定打にはならないジャブやブローをビシバシと受け続けます。

 ただ、このような演出についての監督の確信犯ぶりは、「イントロダクション」にある以下のひと言が端的に語っているように見えます。

 

「ボクシングのパンチドランカーのように、数々の出来事に打ちのめされるヴァンサン・ランドンの姿を撮影し続けた」

 

 この作品が観客を打ち込まれた気分にさせる理由はおそらくこれでしょう。

 

 ボクシングならば、勝とうが負けようが試合が終わればリングから降りることができますが、市場で闘うティエリーは、養うべき家族もいて支払うべきローンもあるので、他所に降りるところがどこにもありません。

 「心が裂けちまった」とジョーみたいなせりふを言っても、リングにいる限りは打たれ続けておりますので、いつのまにかパンチドランカーになってしまうのでしょう。

 

 もしこれをただの比喩だと思える人は、格差社会でパンチをほとんど受けずに済んでいる人か、あるいは打たれ過ぎてパンチに無感覚になっている人かどちらかかもしれませんので、ぜひセルフチェックをしてみてください。

 

 

 監督の文句があまりにも秀逸だったのでついここまで引っ張ってきましたが、つまりはそういう作品です。

 先に引用したストーリーがまだ映画の冒頭で、物語の序の口であることを考えると、92分間打たれっぱなしのサンドバッグ状態になるこの作品のむごたらしさを想像してもらえるでしょうか。

 

* * *

 

 そして、ここからは本当のネタバレになるので見てから読んでいただきたいのですが、ラスト・シーンについて私は希望など何もないだろうと確信しています。

 ただただ、そこにいるのが嫌になっただけで、そうした行動の動機自体は人間的なものなのかもしれませんが、救いはかけらも無いというのが個人的な見解です。

 

 となると、これはやっぱり「労働者ホラー」と呼びたくなる代物です。(去年度の★⑤になっていた『サンドラの週末』のダルデンヌ兄弟などはこのジャンルの旗頭でしょう。)

 

 

 物語の後半で、ティエリーは大型スーパーの監視員の仕事を得ます。

 店内を巡回したりモニターチェックをしながら、万引きを摘発するのが主な業務です。

 

 ティエリーのやや強面の眼差しがクローズ・アップされるとき、彼はたいへん熱心に仕事をしていますが、客が万引きをしないか絶えずチェックしているということです。

 先輩の監視員からは、客のどんな振る舞いが万引きにつながりやすいかを伝授してもらったりもしています。

 

 もちろん、ある種の振る舞いをするすべての客が万引きをするわけではありません。

 映画において、ティエリーはむしろ自分で万引きを発見するだけのスキルをまだ身につけていないかのように、彼自身がモニターで直接発見するシーンは出てきません。

 もしかしたら、意識的にか無意識的にか見逃しているのかもしれないとさえ思いたくなりますが、そうしたことを示唆するようなシーンがないわけでもありません。

 

 

 劇中で万引き犯は何人も捕まりますが、それは客だけに限りません。

 従業員のなかにも万引きのような行為をする者がいるので、やはりティエリーが他の職員と一緒に同僚を詰問することになります。

 ネタバレのネタバレになるのでその内容は書けませんが、問題は先ほど指摘したティエリーの眼差しです。

 

 このようにして、彼は仕事柄、客も従業員も含めて店内にいるすべての人間のことを、万引き予備軍として疑いの目で観察し続けなければいけません。

 それが彼の仕事ですし、彼自身もそのように観察されているはずです。

 

 なぜこのようなことになってしまったのでしょうか?

 

 

 問題は現行犯で捕まえるしかないので、まさに当該の万引き行為が行われる瞬間まで、犯意が見えぬまま対象を被疑者として観察し続けるしかないということです。

 そのことと関連しますが、捕まった人の多くは自分の犯意を否定します。

 初めての犯行だった、手が勝手に動いた、などと悪気がなかったことを主張します。

 

 しかし、ティエリーの側に、抒情酌量の余地はありません。

 現行犯で捕まえているわけですから、商品を購入できなければ警察に通報するしかなく、従業員であれば当然のごとく解雇されるしかありません。

 

 私は、どこかに問題があるような気がしてなりません。

 

 

 言うまでもなく万引きは犯罪行為でありここでそれを擁護する気は毛頭ありません。

 私が気になっているのは、なぜティエリーが四六時中人を疑うようなことを仕事にしなければならないのか、ということです。

 そもそもそれが、どんな客でも悪意を持って買い物に来る可能性があることを前提にして必要になっている職務だからです。

 ここでただ、社会がとか、治安がとか、景気がとか、賃金がとか思わせぶりな用語を使ったところで、この仕事が存在すること自体に人間らしさを含意してくれそうなものを私は何も思いつきません。

 

 記事の冒頭で書いたように、この映画における市場の掟が「野生」という概念と関連づけられているように見えたのは、この辺がポイントになっていると思います。

 もしそうだとすると、ティエリーはもしかして「獲物を狙うような目」で客を見ていたのかもしれません。何と言っても彼には家族のサバイバルがかかっていますから。

 

 

 統計の資料を使えば商店規模と万引き率の関係などが明らかになり、おそらく必要な監視員の数も割り出せるのでしょう。

 では、「人を見たら泥棒と思え」という言い方もありますが、このような見方を強いる職務が監視員に及ぼす心的外傷やストレスの問題はどう考えるべきでしょうか。

 職業選択の段階で自由意思に基づいて決定されていることになる。だから、そうしたことも職務に当初から織り込み済みのはずだ言われるとしたら、何かとんでもないことを認めてしまったことになるような気がします。 

 

 あらゆる人間にいつ何時でも悪意を想定していなければ成立しない職務を、まさしく自らの善意だけで遂行しなければならないときの忍耐力は私の想像を超えています。

 そのこと自体にケアが要請されることになるとしたら労働意欲を阻害するという意味で本末転倒に見えますが、どこかに改善の余地はないのかと考えてしまいます。

 ところで、誤解のないように申し添えておけば、この記事で問題にしようとしている内容は映画作品の射程をできる限り正確に把捉しようとするもので、「監視員」という特定の職務の内容について何らかの価値判断を下そうとするものではありません。(言うまでもなく、実際の事例にはあらゆる具体的な要素が複雑に絡まり合っているはずなので、それらを検証せずに一概にこうだとは言えません。)

 

 

 個人的には、職業選択の余地などまったくないはずのティエリーがラスト・シーンで取った行動には、このような本当にギリギリのところまで来て初めて何がしかの意味を持つような、非常に繊細で微妙な輝きを放つもののように見えました。

 つまり彼は、家族のサバイバルをなげうってでも、何か他のものに自分の生き様を賭けたということのようです。

 

 彼は、誰彼構わず他人を疑って告発する人間には見られたくなかったのでしょう。

 そしておそらく、四六時中他人を疑うようなことも望んでしたくはなかったのでしょう。

 

 

 そのことについて、正しいとか間違っているとか、どう評価するかしないかというのはこの記事が扱おうとしている問題の埒外にあります。ここでは基本的に「職業に貴賎なし」という立場を取っているつもりです。

 決定的に重要なことは、どちらの立場を取るにせよどちらかが当たり前になることは絶対にあり得ないということの意味を私たち一人ひとりがどう考えるかというところにあるはずですので、これ以上は踏み込むことができません。

 上記してきたこと何もかもを含めて、「市場の掟」をどう考えるかというのがここでの問題提起になっているからです。

 

 映画通信簿としては、当初書こうと思っていたモヤモヤが、残念ながらほとんど解消されないままこの地点まで来てしまいました。

 たいていは考えながら書いていて落としどころが見つかるのですが、今回の記事は着陸しないままここで終わります。

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