2016年2月21日

映画通信簿№18:『フリーキッチン』

・中村研太郎『フリーキッチン』

 (2013年、日本)★③

 

 近代都市における日常生活のカニバリズム。

 父親を殺しその肉を食べた母親と子どもの物語。そこに秘められた狂いきれない現実との葛藤。

 

* * *

 

 さて、今回紹介する映画は『フリーキッチン』です。

 この作品の原作は、福満しげゆきさんの『娘味』(青林工藝舎、2015年)というマンガで、この作品の初出は1997年の『ガロ』誌上となっていて、福満さんのデビュー作だそうです。

 私は普段ほとんどマンガを読みませんが、この映画を見て原作はどんなものなんだろうかと思い読んでみたところ、個人的には映画よりもずっとホラーな出来であるように感じました。(それをどう受け取るかは好みの問題になりますが。)

 前回の映画通信簿では原作にまったく触れない映画だけのお話しでしたが、今回は逆に原作と映画の関係について、私はマンガ研究者ではないので分析を深めて考察できないのはたいへん心苦しいのですが、気がついたことをいくつか述べてみたいと思います。

 

 ところで、この記事は物語のテーマとしての「カニバリズム」を問題にしようとはしておりますが、学術的な論述ではありません。それでも現代社会における事件としての「カニバリズム」が、このテーマに関する文化人類学や宗教民族学の研究の成果と、突き詰めるときっとどこかで通底するだろうという前提で書いています。そのため、こうした論述が、読者のみなさんに対してそのような行為を奨励するものでは断じてないことをあらかじめ確認しておきます。

 

 ちなみに『フリーキッチン』は、上映館が全国で4箇所(東京、京都、大阪、名古屋)である上にもうすでにすべて上映終了となっておりますので、映画の紹介記事でありながらどちらかと言えばみなさんにアクセス可能なのは原作のマンガの方であることも先に指摘しておきます。もし興味のある方はお読みになってみてはいかがでしょうか。(映画の詳細については公式サイトをご覧ください。http://fuzzfilmworks.com/

 

*以下ネタバレになる箇所があります。見る予定のある方はお気をつけください。

 

 まずいつも通り記事の取っ掛かりとして、公式サイトから『フリーキッチン』のキャッチコピーとストーリーを紹介してみます。(以下は引用です。)

 

最初の肉は父さんとその愛人でした……。

(キャッチコピー)

 

日常的に人間をつかまえ「料理」する母親と幼い頃からその肉を母親から食べさせられ肉を食べただけで性別等が分かるようになってしまった内気な高校生ミツオの生活、そしてミツオのガールフレンドのカナとの純愛をカニバリズムというニンゲン最大のタブーをベースに描かれたブラックな原作をホラーともコメディともいえないタッチで淡々と描く。(ストーリー)

 

 

 とりあえず最初に、映画数珠つなぎとして紹介したいのですが、『フリーキッチン』と雰囲気が近いと思われる作品としては、「カニバリズム」の日常生活を淡々と描いた次のようなものがありました。

 

・マヌエル・マルティン・クエンカ『カニバル』

 (2013年、スペイン・ルーマニア・ロシア・フランス)★③

 

 また『フリーキッチン』を見て、ミツオのガールフレンドが働いているペットショップのシーンや、母親がバスルームで肉を「料理」するときの画角などからは、園子温監督のあの傑作へのオマージュがすぐさま想起させられることでしょう。

 

・園子温『冷たい熱帯魚』

 (2010年、日本)★⑤!!!

 

 他にも「カニバリズム」と言えば『食人族』などの古典的な名作もありますが、『フリーキッチン』の舞台設定にあるような近代都市における日常生活の狂気という方向性とはおそらくずれてくるので、ここでは特に取り上げないことにいたします。

 また「ゾンビもの」や「ヴァンパイアもの」といったジャンル映画にも「食人」のようなシーンはかなり広範に渡って散見できると思いますので、ホラー映画のなかでも特にこうした描写に美を追求なさっている方は、臆断を控えていろいろな作品をご覧になってみるのが良いかと思います。(私は個人的には『悪魔のいけにえ』の「家族の団欒」とも言えるような「食人」の場面よりはむしろ『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の有名な「最後の晩餐」の方に強烈な美を感じます。)

 

* * *

 

 それではここから、『娘味』から『フリーキッチン』への翻案において変更されている点について、私の気づいた限りで簡単に説明してみます。

 原作から映画への変更点には、以下のようなものがありました。

 

 

①原作で最初に食べた肉(つまり殺されたの)は父だけだが、映画では父とその愛人の肉になっている。(ちなみに原作では殺された理由は明かされないが、映画では母の料理に文句をつけたり家に愛人を連れ込んだりして父が母に執拗な嫌がらせをしていたことが明示されている。)

 

②原作で主人公の「僕」は母と一軒家に住んでいて秘密の地下室で「料理」が行われるが、映画ではマンションに住んでいてバスルームで「料理」が行われる。

 

③原作で「僕」は15歳の設定で、中学一年生のときに自分をイジメていた林君がある日お弁当のおかずになったため、それ以来学校でお弁当が食べられなくなったということが、過去のエピソードとして挿入されている。(林君は登場しない。)

 映画で主人公のミツオは、同じマンションに住む幼馴染の林君に現在もイジメられていて、元気のないミツオの様子にイジメの徴候を見て取った母がある日林君をお弁当のおかずにする。(林君は幼馴染のイジメッ子として登場してミツオに嫌がらせをするだけでなく、いつまでも若くて美人なミツオの母親にほのかな憧れを抱いている。)

 

④原作では、クラスメートの女の子がお昼ご飯のない「僕」を見て、お弁当作りを申し出てくれたことをきっかけに仲良くなるのだが、そのことを母に知られたため、その女の子は秘密の地下室で「料理」されそうになってしまう。

 映画では、フトアゴヒゲトカゲを飼うミツオが、下校中にあるペットショップの店員カナと爬虫類トークで仲良くなるのだが、そのことを母に知られたため、カナはバスルームで「料理」されそうになってしまう。

 

⑤映画にあって原作にはない最大の相違点として、カナとデートしたミツオは、彼女のお弁当を食べながら彼女の肉がどんな味なのかを妄想し、その場に居たたまれなくなって立ち去ってしまう。しかも母は、ミツオのそうした嗜好に感づいていて、ミツオの誕生日の肉料理ではカナをメインディッシュにすることを決めている。

 

 

 他にも、細かい部分や映画のオチに関わる大きな部分に変更点があるのですが、それは見てのお楽しみということで伏せておきます。

 

 原作がわずか20数ページのマンガですので、おそらくその行間と言いますか、コマ間を埋めるようにして、映画の物語が膨らんでいったように思われます。

 ③のようにマンガではせりふのなかだけで登場しないキャラクターが映画では実際に登場したり、そもそも原作には登場しないような人物やエピソードも映画には含まれていますが、それらは全体として登場人物の行動を心理学的に動機づける"説明"の機能を果たすように方向づけられていることが多いように私には見受けられました。

 これを言い換えると、登場人物の行動はそれぞれ心理学的に裏づけることのできる明確な理由があるというコンセプトに従って物語が構造化されているように見える、ということです。(母が父だけでなく愛人までも殺害したり、林君がミツオの母に憧れていたり、ミツオとカナがペットショップで共通の趣味を通して親密になるなど。)

 

 

 ところで、以下において、「ホラーのミ・カ・タ」として考えたいのは、とりわけ①と⑤に関わる部分です。

 

 まず①に関して、原作においては母が父を殺す理由は明確ではありません。「僕」がその殺害の場面に居合わせていたということと殺害後に母と二人でその肉を「共食」したということだけが提示されています。

 しかし映画では、父が母に執拗な嫌がらせをしていたこと、しかも愛人を自宅に連れ込んで母に料理を教えさせるという屈辱的な虐待を行ったことが描かれています。

 

 おそらくこのエピソードが意味しているところというのは、母が父に愛されたかったということと、母は父に気に入られるために愛人を介した虐待に耐えていたが、ついに抑えきれずに殺害に及んでしまったということ、になるでしょうか。

 ところでこれもまた、殺害の動機を心理学的に"説明"するためにコマ間を埋めようとするエピソードであり、母が父とその愛人を殺害したことから「カニバリズム」にいたる動機を心理学的に"説明"するための機能を果たしているように見えます。なにしろ、「料理」によって嫌がらせを受け「料理」によって屈辱を与えられてきた母がその当人たちを実際に「料理」することで復讐しようとするという筋書きなのですから。

 しかもこのような物語の構造は、最終的にミツオがカナと一緒に母を殺害し、その上で「料理」してやはり「共食」することで一巡するような仕掛けになっています。

 

 父が連れてきた愛人は、母にとって母親=妻という自分の位置を脅かすライバルのような存在として登場しているようです。母は父と愛人を殺してミツオと共犯的に二人を食べることによって、母子二人だけの排他的で濃密な関係を新たに築き上げようとします。自分の作った肉料理を毎日食べさせ続けることでミツオを囲い込み、思い通りになる所有物としてミツオを独占しようとするその態度には、「インナーマザー」の強い影響力を暗示する意図がありそうに見えます。(このような関係性の具体的なイメージとしては、ゴヤ「我が子を食らうサトゥルヌス」を参照のこと。)

 しかもそこでは、あたかも父と愛人が実現していて父と母とが実現できなかった恋愛関係のパロディを再現しようとしているかのようにも見えます。そのため、ミツオがここで子であると同時に不在になった父親=夫でもあるような立場に置かれることになるとしたら、彼は母子という二者関係によって、支配的に占有されるべき子であると同時に、夫から得られなかった愛情を示すべきパートナーとしても二重に設定されることになるでしょう。

 とすると、このようにしてミツオは、まさに毎日母の肉料理を残さず食べ続けることでその二重の愛情に応えなければならないという使命で強固に束縛されています。

 

 

 以上のような解釈は、原作のコマ間を埋めるようにして展開したと思われる心理学的な動機づけを"説明"するエピソードを、できるだけ素直に心理学的に受け取ったらどうなるかを私なりに明確に述べようとしたものです。(映画通信簿№1で試みたような解釈とやや似た方法です。)

 しかし、『フリーキッチン』においてこのように増殖したエピソード群はどれも母の心理を"説明"することには役立つとしても、そのことがホラーの要素を増すように作用すると私にはどうしても思えません。つまり「カニバリズム」というホラーなテーマを取り上げながら、『フリーキッチン』はホラー作品となることをなるべく避けるかのように物語が構成されているかのように見えるのです。(さらに言えば、物語自体がどれほど心理学的な意味で綿密に構成されているとしても、それがそのまま映画作品の出来栄えに直結するわけではないということも、映画作品における芸術性ということを考える上で無視できないポイントの一つだろうと私は考えます。)

 

 

 また⑤に関しては、カナと爬虫類トークをしたり、彼女のお弁当を食べたり、二人でデートしたりしたことをきっかけにして、母の肉料理を食べられなくなったはずのミツオが、なぜカナの肉の味を妄想するにいたったかということが問題になってきます。

 

 母の肉料理を忌避しながらカナの肉を食べたいと夢想するのは、ミツオが「カニバリズム」に拒否反応を抱いているわけではないということを端的に指し示しています。

 ミツオは幼いころから母によって強制されてきた食習慣によって、食材となった人間の性別や年齢などがわかるようになっていますが、食人という行為そのものに対する嗜好を否定したり克服するつもりがあるようには見えません。

 そのため彼はごく単純に自分の母親を憎んでいるようですが、カナに恋心を抱くことで自分の食欲が刺戟されたことに驚き戸惑うとしても、そのことが「カニバリズム」の否定に直接的には結びついていかないということです。

 

 象徴的な解釈になりますが、誰かの手料理を食べるという行為自体が、そこで差し出されている愛情のサインを受け取るという行為にもなっていることから、「吐き気」、「嘔吐」、「拒食」あるいは「過食」といった反応が、食材や料理そのものよりも、そこに盛り込まれている隠された意味に対する、身体的な拒否反応の現れである可能性を考えてみるのは興味深いことかもしれません。(これは雑記№5や映画通信簿№12で書いたことと関係があります。https://horrornomikata.blogspot.jp/2015/11/5.html、あるいはhttps://horrornomikata.blogspot.jp/2015/12/12.html

 

 先ほども述べましたが、この作品においてミツオは、カナに対する恋心とともに自分の食欲が刺戟されたことについて、食人の嗜好そのものを抑えきれず我慢できないといった葛藤に陥ることはありません。つまり、好きで好きでたまらないのにその相手を食べたくて食べたくて仕方がないので傍にいて愛し合うことができないといった状況にはとりあえずならないのです。

 その代わりにミツオは、母の手料理に拒否反応を示します。なぜなら、それが母の愛情の証拠であると同時に支配の象徴でもある肉料理だからなのですが、ミツオがそれを呑み込む気にならないというのは、父に対する怨恨をあからさまに盛り込んだ母からの一方的な愛情=支配をもはや受け入れたくないという、意識的でもありつつ無意識的でもあったろう身体的な応答なのだと考えられます。

 ということで、やはり『フリーキッチン』では食人のホラーを相対的に減らしていくことによって母子という二者関係からの自立、つまりは「離乳」のテーマの方が「カニバリズム」にも増して強調される結果になっていると言えそうです。

 

* * *

 

 ここまでですでに長々と書いてきてしまいましたが、そろそろ締めに入ります。

 

 上記してきたように、私の見る限り原作『娘味』から映画『フリーキッチン』へといたる過程において原作のマンガが(ページ数の都合などもあるのかもしれませんが)具体的な記述をせずに描いているところを、映画では登場人物における心的な動機づけを補完するような視点でエピソードを増やして味つけを加えていったと考えられます。

 これは、「カニバリズム」をテーマとして扱いながら母と子の葛藤に焦点化することでホラー作品となることからきわめて潔く身を退こうとする振る舞いであるように私には感じられます。

 もちろんこのような戦略それ自体は、怖がらせずに「カニバリズム」を描くということを目的にしている限りは完全に理に適ったもののように思われます。しかしながらそうだとすると、ではなぜ「カニバリズム」を物語のテーマとして選択しなければならなかったのかという次の問いが浮上してくるはずですが、それについて私が見た限りで明確な答えを見つけることはできませんでした。

 

 むしろ、普段マンガを読まない私の印象として、『娘味』は紛うことなきホラー作品であるように見えましたので、このような方向性での翻案は、そのテイストを殺すことになりかねないのではないかという懸念が生じてきます。

 原作の方は簡単にアクセス可能ですので、興味を持たれた方はぜひご覧になってみたら良いのではないかと思いますが、できればこの絵柄とスタイルのまま、例えばバタイユの『目玉の話』やコクトーの『恐るべき子供たち』、ホフマンの『砂男』などが読めたら素晴らしいだろうなと勝手に夢想してしまいました。

 目の肥えていないいち読者として私にはそういう描写力がある作品のように見えたわけです。これはこれで、マーケティングを無視したホラーを全開で志向したマンガを表現する可能性として、その先が見てみたかったという気がします。(すでに20年も前に発表された作品に対するコメントとしてはやや不適当かもしれませんが。)

 

 

 それにしても原作のタイトルはなぜ「娘味」なのでしょうか。

 この作品で「娘」に該当しそうなのは第一にクラスメートの女の子であり、第二に元「娘」としての母の二人だけです。「娘味」というのが、「食べた肉が娘の味」ということなのか、「肉を調理した娘による味つけ」ということなのか、判然としません。

 ただ、マンガにおけるミツオの最後のせりふが「おふくろの味」であることから、食べている肉料理の食材がまさしくミツオの母であるということと、通常の語法で使われる場合と同じように、食べている肉料理の味つけがまさしくミツオの母と同じであるということとの二重性で捉える必要があるでしょう。(食べてみれば牛肉なのか豚肉なのか鶏肉なのかがわかるように、ミツオにとって「人肉」は、いつも食べている「おふくろの肉料理の味」であったのかもしれません。)

 このようにして考えてみると、「娘味」の「娘」という語は母=娘であると同時にクラスメートの女の子=娘として二重の含意を持っていると捉えることができますし、さらにそこから「おふくろの味」というオチのひと言が、クラスメートの女の子の立場がまさしくミツオをめぐって「娘」から「母」のところに移行したということを承認した宣言のようにも受け取ることができそうです。(これによって夫婦の世代交代が完成します。)

 とは言えこうした内容は、推測の域を出ない読みの試みの一つでしかありません。

 

 

 ところで、みなさんにとって、現代社会における「カニバリズム」というのは、重視するに値しないような問題になりますでしょうか?

 ここまで読んでくださった方がたにご理解いただけると良いのですが、これは決してあり得ない問題などではありません。言うまでもなく、日本に限らずさまざまな場所で「食人」という行為の異常さで際立つことになった実在の事件がニュースとなり記録に残っています。

 

 ホラーを擁護する立場としては、観客の日常にとって「あり得ない」ことになっているようなこうした出来事が、映画体験を通じていともたやすく「あり得る」というところまでごく自然に引き寄せられてしまうとき私たちは慄然とするしかないですし、まさにそのような作品こそ良質な「リアル・ホラー」として称揚していきたいと思っています。

 冒頭の繰り返しになりますが、こうした記述は食人行為を奨励しようとするものでは断じてなく、ある点においては現代社会に特有な狂気の徴候の一つとして見なすことができるのではないかという視座を、「ホラーのミ・カ・タ」として提供することを目的としています。(ブログのポリシーについては「ホラー・マニフェスト」をご参照ください。)

 

 

 例えば、

 

・ワン・ビン『収容病棟』

 (2013年、香港・フランス・日本)★⑤!!!

 →公式サイト:http://moviola.jp/shuuyou/

 

 の映像を、スクリーンに向かって合計237分間凝視していると、最初に「あり得ない」と思っていたすべてのことが、次第に「あり得る」どころか当たり前というところにまで横滑りしていく感覚に陥り、にわかに総毛立つはずです。

 すべて現実というような生易しい話ではなく、ここに描かれているのはすべて自分のことだと思えてくるような親近感のような既視感のような気持ちがわき上がってきて、人によっては見る前と見た後で如実に大きな変化を実感できるような映画体験がそこにはある、と断言して良いかと思います。

 

 また例えば、

 

・ミヒャエル・ハネケ『白いリボン』

 (2009年、ドイツ・オーストリア・フランス・イタリア)★⑤!!!

 

 などは、字幕を追っていると作品の決定的瞬間をほぼ必ず見逃すように仕組まれているため、私は二度劇場に足を運んだのですが、そのなかできわめて周到に構造化された「プロテスタンティズムの倫理とナチズムの精神」というテーマを察知して、本当に背筋がゾッとしたのを覚えています。

 このような直観が実際に正しいかどうかにはもちろん検討の余地があるのですが、この作品も「あり得ない」はずのもの(ナチズムの精神)が「あり得る」もの(プロテスタンティズムの倫理)となだらかに地続きであるということを、見事な文体と語りの構造によって、さらには歴史性に裏づけられた「リアリティ」をもってして、劇場で体験させるための作品であったと記憶しています。

 

 今になって思うと、読書感想文№6で紹介した『シャルリ?』において著者のトッドが提示している「ゾンビ・カトリシズム」という現象のあり様と、『白いリボン』のテーマは「宗教的空白」という問題の本質的な部分で通底してくるような気がしますが、これについては思いつきの域を出ておりませんので、本気で指摘するためにはきちんとした検証作業が不可欠になります。

 

 

 もちろん、「カニバリズム」を取り扱うからにはホラー作品でなければならないという理屈は通りませんし、原作のテイストがホラーだからといって映画をホラー作品にしなければならない必然性もありません。

 この記事は、あくまで「ホラーのミ・カ・タ」からだとこう考えることになるという一つの提案に過ぎないことをご了承いただけると幸いです。

 

 ただ、最後に一言だけ付け加えるならば、現代社会における「カニバリズム」というテーマの選択そのものが、近代都市の日常生活においてでのみ想定できるホラーを念頭に置いてなされているようにしか見えないために、そのことを絶対に蔑ろにしてはいけないし、取り組む限りはそこで見据えるべきホラーとはどのようなものであるかを作家としては全力で考え抜く責任があるのではなかろうかという立場(あえて言えば「ホラーの倫理」(?)という立場)から、このような記事を書くことにしました。

 

 みなさんが隣家の「カニバリズム」を考える上で少しでも参考になればと思います。

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