2016年1月27日

読書感想文№6:『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』

・エマニュエル・トッド

 『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』

 (2016年、堀茂樹訳、文春新書)

 

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 さて、今回紹介するのはフランスの著名な歴史人口学者であるエマニュエル・トッドの『シャルリとは誰か?』(以下『シャルリ?』)という本です。

 翻訳出版されたばかりの新刊ですが、かつて読書感想文№4で書いた内容と関係があるということと、後述しますが「今しかなさそうだ」というほんのちょっとした事情が重なり、このタイミングになりました。

(記事はこちら。https://horrornomikata.blogspot.jp/2015/11/4.html

 

 アメリカの批評家スーザン・ソンタグの『テロへの眼差し』を取り上げたときは、「日本からでは又聞きのように知るしかない情報」についてどのように対処するべきなのだろうか、ということについて自分なりに考えたことを書いてみました。

 そして、今回紹介するのは、現地からの速報性を帯びたレポートであるだけでなく、移民を含めた人口動態の問題に長年取り組んできた専門家による、フランスにおける「イスラム恐怖症」とその二次作用である「反ユダヤ主義」に関する先鋭な検証を含む本ですが、著者によればこれは先進諸国のどこにでも当てはまる社会危機についての分析の書だということです。

 フランスにおいて誰が「イスラム恐怖症」に罹患しているのか、歴史的に遡るとその原因はどこにあるのか、現時点でどうすればそこから立ち直ることができるのかまでも仔細に検討されていますので、現代社会における「人種差別」や「排除」の問題に関心のある方はぜひとも手に取ってみることをオススメいたします。

 

* * *

 

 この本には、奇妙なことにその初めと終わりのどちらにも「日本の読者へ」と題されたコメントが付されています。

 初めには、この本の執筆動機を奮い立たせるきっかけになったのが日本の新聞社からのインタビューであったことが、終わりには、この締めくくりの文章が2015年11月13日にパリおよびその郊外で発生した大量殺人事件について著者のトッドが初めて言及したものであることが記されています。

 彼によると、2015年1月7日に「シャルリ・エブド」への襲撃事件があり、その後11日にフランス全土で大規模な「私はシャルリ」運動があり、同年5月にそのことを分析したこの本『シャルリ?』が出版されて以降、自分にとって「表現の自由」はなかったというのが、彼が昨年末の大事件についてフランス本国では無言を貫き、日本語での訳本を通してそれについて初めて公に言及することになった経緯のようです。

 それでは、『シャルリ?』末尾の一節を引用してみます。(以下(~頁)は引用です。)

 

日本語版のためのこの短い一文は、11月13日のテロについて私が書いた最初の文章です。『シャルリとは誰か?』を発表したことで六ヵ月にわたって多くの侮辱を受けた私はついに、表現の自由が、そしてとりわけ討論の自由が、現時点においては、フランスではもはや本当には保障されていないと認めるに到ったのです。

(306頁 *日付を漢数字からアラビア数字に改めた)

 

 私が知る限り、あの「私はシャルリ」運動について、日本のメディアはまるで「表現の自由」を標榜して大々的に展開されたかのように報道していたようですが、今日のフランス社会においてこのことが持つ意味を分析した著者トッドに対しては、むしろ「表現の自由」を抑圧する方向で今も働き続けているという言明がここではなされています。

 フランス国内のマイノリティであるイスラームの人びとが信奉する預言者を侮蔑することのできる「表現の自由」を権利として要求しておきながら、こうした運動が中産より上の階級に蔓延する「イスラム恐怖症」に根差していて、その結果として都市郊外における「反ユダヤ主義」の激化を招くという研究者の見通しには猛反発を引き起こす人びと、それこそが実はこの本における「シャルリ」のポートレイトだということになるのですが、もしこのような筋道に納得の行かない人はぜひともご自身でお読みになってその記述の是非を判断していただけると良いかと思います。

 

 

 私個人としては歴史人口学にも家族人類学にも今まで縁がありませんでしたので、トッドの分析がどのような理論に基づいているのかや、その問題の立て方および分析の仕方にどのような根拠があるのかを、自前で吟味することはできません。

 ただ、この本を読んで、これまでずっと漠然と理解できずにいたことを考えるヒントのようなものが、記述のそこかしこに発見することができて、本当に貴重な読書体験であったなと実感しております。(著者に踊らされるようにして、一から十まですべて日本に当てはめるとどうなるかと考えながら読み進めていくと、他人事にできるような要素が実はほぼ無きに等しいのかもしれないと思えてきて、読書体験が背筋の凍るほどスリリングなものになります。)

 

 ノンフィクションにネタバレも何もないかもしれませんが、フランス国が抱く「イスラム恐怖症」(「スケープゴート探し」)の原因を突き止めるという意味では推理サスペンスのようでもあり精神分析の臨床記録のようでもあり、本当に興味が尽きない読書になるかと思われます。

 

 

 『シャルリ?』の内容いかんにつきまして、現地にいたわけでもない私が詳細に検証することはできませんので、以下においては、この問題を他人事にしないために役に立ちそうな著作を、読書数珠つなぎ的に私の知る限りでいくつかご紹介します。

 

 ただその前に、この本がフランスにおける社会学の伝統に根差したものであることを著者自身が明記しておりますので、まずはその部分を紹介してみます。(以下(~頁)は引用です。)

 

社会学がひとつの科学であり始めるのは、社会学が、人びとがときに本人たちの意識を超えた社会的な力によって動かされるものだということを認めるときであると、デュルケームは言った。人びとが自分たちの行動に与える意識的解釈は必ずしも正確でない。かくして、近代社会学を創始した著作である『自殺論』は、何人かの自殺者たちが遺した説明や、死亡を記録した係官によって特定された動機を拒否するところから始まっている。デュルケームはむしろ、自殺行為が客観的統計の中で、時、空間、家族状況、宗教によってどう分布しているかを見ることによって現象の意味―あるいはむしろ複数の意味―を探究している。それこそがまさに、「私はシャルリ」という現象を理解するためにわれわれがやらなければならないことだ。このような展望において、デモ参加者たちを煩わせることはしないでおこう。彼らはしばしば、自らがデモに参加して何をしていたのかを本当には説明することができなかったのである。政治記者たちのことも忘れることにしよう。彼らは情報過多になったメディア空間の擬態的酩酊に溺れて、「物事の意味」を述べるのが任務だと思ってしまった。(35-36頁)

 

 『シャルリ?』のトッドは、『自殺論』のデュルケームに倣いながら、客観的な情報である統計資料を駆使して、デモ参加者が「私はシャルリ」運動に身を投じることの深い意味を、あるいは本人さえうかがい知ることのできない無意識的な意味を読み解くという試みの必要性を、このように訴えています。言うなれば、「弱い価値」(個人)よりも「強いシステム」(社会)に重きを置くこのような分析者の態度については、この本のなかで何度も言及がなされています。

 個人的な感想ですが、こうしたトッドの記述は気迫に満ちているだけでなくたいへん説得力があり、投票行動のような統計資料の分析がまさかこれほどサスペンスフルに「イデオロギー」の実像を活写するものだと読む前は思ってもみませんでした。伝統的な家族形態に裏打ちされていて、さらには地政学的な必然性をも帯びている各人の思考様式に基づく「ポリシー」の選択というのは、どうあがいても自分自身の意識的な反省の範疇を超えたところから始まっている問題なので、結果をズラリと並べられると「う~ん、そうなのか…」とうなるしかないような気がしてきます。(そしてそこから必然的に導き出される問題と、それに関する現今のフランス政府の対応を、これでもかとばかりにバッタバッタと斬り捨てていくさまはある意味で実に爽快です。)

 

 

 ただ、もちろん当の社会学の内部においてでさえ、統計資料だけで何がわかるのだという反論がないわけではありません。そのような視座を解説してくれる読みやすそうなものとして、例えば私の手元には以下のような本があります。

 

①好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』

 (2006年、光文社新書)

 

②谷岡一郎『「社会調査」のウソ リサーチ・リテラシーのすすめ』

 (2000年、文春新書)

 

 ①は社会調査士に代表される「量的調査」の制度化に対して「質的調査」の重要性を説く「差別の社会学」を専門とする著者の本です。②は、日本国内外で実施されてきた「社会調査」を具体的に取り上げてその杜撰さを糾弾する「ギャンブル社会学」を専門とする著者の本です。

 どちらにせよ、高度な専門性を有する学問領域に関わる内容で、私にその客観性を判断することはできませんが、これらの著作は単純に読み物としても非常に興味深いものでしたので、「どんな問いでも答えを一つに決めない」というこのブログのモットーに照らして紹介してみました。もしよろしければ手に取ってみてください。

 

 また、いつどこであっても社会危機に直面すると必ずや噴出してくる「~~恐怖症」(「スケープゴート探し」)の分析については、日本語で書かれたものとして以下のような本があります。

 

③清水幾太郎『流言蜚語』

 (2011年、ちくま学芸文庫)

 

 ③は関東大震災の発生直後、広範に膾炙した「流言蜚語」を一つのモデル・ケースとして、その当時の社会心理を分析した著作になります。清水幾太郎はたいへん著名な社会学者で、これは統計資料を駆使した類の研究書ではありません。しかし私たちが『シャルリ?』を読んだ上であればなおさら、社会危機に直面した過去において実際に発生した日本の事例を知っておくことの意味は少なくないと思います。

 

 

 そして、やっと最後になりますが、上記してきたような記事が「今しかなさそうだ」と思った理由についてごく簡単に触れておきます。

 理由となるのは2016年1月26日付でニュースになったバンクシーの最新作なのですが、それは以下のサイトで見ることができます。

 

http://banksy.co.uk/

 

 そのことについてのAFP通信の解説が以下のサイトに掲載されています。

 

http://www.afpbb.com/articles/-/3074562

 

 バンクシーに呼応してというわけではないのですが、こうした問題はいつも水物で、考えるべきときに考えておかないと「壁に描いた落書き」(もちろん敬意を込めて)のようにあっという間に洗い流されてしまうので、タイミングを逃すまいと思いこのような記事を書いてみました。

 

 

 『シャルリ?』との関連で、私が考えようとしたことは以上になります。

 読書感想文№4で、これからどうして行けば良いのかを具体的に書けなかったためそこでは宿題のようになっていたのですが、トッドが著書の巻末に「未来のシナリオ」として、フランス国民と先進諸国のあらゆる読者に対して、まるで予言者のようにその具体策を見事に提示してくれています。(しかもご丁寧にポジティヴなものとネガティヴなものの両方とも。)

 こうした問題を他人事にせずに、具体的にどうすれば良いかを考えていくためには、まさに時宜を得た絶好のテキストなのではないかと思います。

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