2016年1月21日

映画通信簿№15:『アンジェリカの微笑み』

・マノエル・ド・オリヴェイラ『アンジェリカの微笑み』

 (2010年、ポルトガル・スペイン・フランス・ブラジル)★⑤!!!

 

 現代ポルトガルを舞台にした幻想的な冥婚譚。

 カメラが結ぶ死霊との恋はまさに神話的なホラーそのもの。

 

* * *

 

 さて、今回紹介する映画は『アンジェリカの微笑み』(以下『アンジェリカ』)です。

 これは、昨年に106歳でお亡くなりになるまで現役最高齢の映画監督として活躍し続けていたオリヴェイラ監督101歳のときの作品です。

 公式サイトの紹介文には、「まさに、芳醇な極上ヴィンテージワインのような傑作」とありますが本当にその通りだと私も思います。このブログでも、報告№1でホラー映画をワインのようにたとえましたが、ホラーに限らず、すでに映画にたしなんでいる人も、これから映画にたしなもうとする人も、この極上の一本を見逃す手はないという判断から、私なりの推薦文を以下に書いていくことにします。(詳細については下記の公式サイトをご覧ください。http://www.crest-inter.co.jp/angelica/

 

*以下ネタバレする箇所があります。見る予定のある方はお気をつけください。

 

 公式サイトでも、若尾文子さんや立川志らくさんが、この作品と三遊亭円朝の『怪談牡丹灯籠』との類似性を指摘していますが、死んだ女に恋い焦がれる男のこのようなお話というのは、いわゆる「冥婚譚」と呼ばれる神話・民話等のカテゴリーに入るもので、世界中に広く分布しています。これは、もちろん日本の『牡丹灯籠』だけの話ではなく、例えばエドガー・ポオやテオフィル・ゴーチエなどの怪奇幻想小説がお好きな人にも、おそらくおなじみのモチーフではないでしょうか。

 私は、ポオなら『リジイア』、『エレオノーラ』などを、ゴーチエなら『スピリット』、『死霊の恋』などをすぐに連想してしまいます。読書感想文№1でも少し触れましたが、日本の江戸怪談などとこうした欧米のゴシック小説との秘かな類縁性はまだちゃんと調査しておりませんが本当に興味深いところです。

 

 また、20世紀初頭のパリにあったホラー専門のグラン・ギニョル演劇でも、『赤ランプの下で』という戯曲に出てくるカメラの役割に『アンジェリカ』と似て非なるところがあってたいへんおもしろいと思います。

 ここで上演されるのは、幻想的な部分が少しもない自称「自然主義」演劇なのですが、『赤ランプの下で』では、恋人の死を嘆き悲しんだ男が最期の姿をカメラに収めて埋葬したというところから舞台は始まります。しかし、その写真を現像してみると、そこに生きている徴候が見て取れたため急いで掘り返してみると、棺の中で恋人がもがき苦しんで窒息死していたことがわかるという筋書きです。

 カメラという小道具が、ここでは「生き埋めになっている」という証拠写真を提供する役割でもって使用されていて、まるで科学捜査で裏づけるときに持ち出されるようなやり方と同じに見えます。

 

 

 しかし、『アンジェリカ』の場合において、カメラが果たす役割はそのようなものではありません。(以下は公式サイトからの引用です。)

 

ポルトガルはドウロ河流域の小さな町。カメラが趣味の青年イザクは、ある夜、若くして亡くなった娘アンジェリカの写真撮影を依頼され、町でも有数の富豪の 邸宅を訪れる。白い死に装束に身を包み、花束を手に抱えて横たわる、かの娘にカメラを向けると、その美しい娘は、突然瞼を開きイザクに微笑みかける。その 瞬間、イザクは雷に打たれたように恋に落ち、すっかりアンジェリカの虜になってしまうのだった。

 

 この作品の主人公であるイザクは、舞台となるドウロ河沿いの町に移り住んできたばかりのユダヤ系の住民(「セファルディム」)で油田関係の仕事していますが、カメラを趣味にしています。

 たまたまカメラ屋の主人が旅行中であったため、イザクは結婚したばかりで亡くなった町の名家の娘であるアンジェリカの写真を撮ることになります。映画の中で彼女が死んだ経緯はきちんと明かされませんが、花嫁衣裳のような白いドレスを身にまとい、周りから「神々しい」、「まるで生きているような死に顔だ」と評されるアンジェリカが、イザクのファインダー越しに目を開けて彼に微笑みかけてしまったことで、彼は完璧に彼女に囚われてしまうのです。

 ただ、引用文にあるように、本当にこの瞬間に恋の虜になったかどうかには解釈の余地があると思います。確かにアンジェリカの微笑みによって囚われることになったのは事実だとしても、イザクがそれを恋心だと意識化する過程としてはむしろ事後的に「この瞬間」に恋に落ちたということになったのではないかというのが私の意見です。

 

 この映画に関しては、見てのお楽しみという部分で感興を削いだりしたくないので、あまり詳しく書くことはできないのですが、私の個人的な感覚としては先ほど提示した小説のなかでも特に細部がゴーチエの『スピリット』によく似ているような気がします。

 

 

 映画のなかでアンジェリカの素性についてほとんど語られませんので、死してなおファインダー越しにイザクに微笑みかけることになったのかを彼女の側からはっきりと断定することはできませんが、少なくともイザクにしてみれば、このことがのちに美しい死霊の娘であるアンジェリカに一目惚れをしたと思い込む要因になるわけです。

 序盤の、初めてアンジェリカの横たわる姿全体を捉えるショットで、彼女がまさしく神々しく、まるで生きているように見えなければ、一目惚れそのものもその後の展開すべてにもいっさい説得力が欠けてしまうことになるのですが、彼女のそのあまりにも安らかで穏やかな微笑みに、ここでは観客の誰もが思わず「天使」と呼びたくなるような美しい相貌を見出すことでしょう。(こうしたことをぜひ劇場で確かめていただけると映画批評ブログ冥利に尽きるのですが。)

 

 それは、アンジェリカの死を悼んで喪に服している通夜の参列者の人びとの哀しみとはあまりにも対称的な、晴れやかな微笑みに見えます。

 パンフレットにも、この作品の解釈において二項対立の重要性を示唆している記事があったと思います。死んだ娘と働く農夫、夜と昼、雨と晴れ、魂と肉体、神秘と科学などなど、この映画には想像力を喚起する要素がとにかくたくさんあります。

 ただ、いずれにせよ、この「と」に当たる部分にカメラが介在しているところに作品のポイントがありそうです。つまり、イザクはカメラという媒介項を通して、前者の世界をのぞき見してしまったせいで、深みにはまってのめり込んでいくということです。

 そうだとすると、「と」を「←」に代替することも可能なのでしょうか。イザクはアンジェリカの側の、つまりは前者のカテゴリーに属する「ことになる」登場人物として、まさしく冥婚譚の主人公にふさわしい描かれ方をしているような気がします。

 

 劇中において、イザクには「悩み」があったがアンジェリカに恋をして解放されたことや、死者と生者の写真を並べておくことに彼の「絶望」が表現されているとことなどがほのめかされることになります。(まったく無関係だと思いますが、この文脈で「絶望」と聞くと、私はどうしても恋と信仰に引き裂かれた「実存主義」哲学者の用語を想起してしまいます。)

 

 

 ところで、なぜカメラが死霊となった(カトリックの?)アンジェリカと「セファルディム」であるイザクを結ぶ「媒介項」となるのか。

 そもそも、アンジェリカはなぜ、結婚してすぐ身ごもったまま死んで、しかも「天使」になったのか。

 

 

 できればもう一度劇場で見て、こうした疑問のなかからわかることがあれば補足して書きたいと思っていたのですが、理解が深まることにあまり自信がありませんので、さっさと記事にしてしまいました。(もちろん後からわかったことは補足します。)

 

 情報量が多すぎて、こちらの勉強不足が完全に露呈してしまうおそろしい作品ですが、物理学的な根拠に基づいた「絶対空間」のなかにアンジェリカの存在を位置づけようとするイザクの思考と、物質的な根拠に基づいて「永遠」のなかにアンジェリカの肖像を定着させようとしたイザクのカメラと、物質的な根拠に基づいて「永遠の愛」をフィルムに焼きつけようとしたオリヴェイラのカメラとが見事に入れ子状に重なり合っていて、映画における「目に見えないもの」という方向へと観客を優雅にいざなってくれているように私には思われました。

 「永遠に触れる」というのはややおざなりな言い回しなのかもしれませんが、死んだアンジェリカの肖像写真というきわめて具象的なものを軸に展開するこの作品の体験知が、そういったことに対して開かれているというのは確かなことだと思います。(個人的にはここで「聖性の表象」と言いたいところなのですが、そのためにはまだ研究が及びません。しかしこれこそがオススメ度を満点にした理由です。)

 

 

 いつにも増して映画に酔っているためか、取り留めのないことを思いつくまま書いてしまいました。

 本当は最後に、これこそ実は「ホラー」映画なのだ、ということを書くべきところなのですが、それだけはどうしても「永遠に触れる」作品を見た後でしか人に言えないことなので、ここではとりあえず伏せておくことにいたします。

 

 

〔追記〕(2016/1/26)

 もう一度見てわかったことではありませんが、最後に書いた『アンジェリカ』における「ホラー」の要素に関する細部について、ほんの少しだけ付け足しておきます。

 

 まず一度目は、スクリーンにほど近いところで緑色の非常口誘導灯が点灯したままの上映でしたので、夜の暗闇が映えるこの作品の素晴らしいシーンの多くがその照り返しで非常に残念な影響を受けてしまっておりました。

 しかし二度目は、同じ劇場ですが別の部屋で非常口誘導灯も消灯しており、スクリーンに映し出される暗闇の深度がまるで見違えたようで、前回とは比べものにならないくらい美しいものに見えました。

 

 また、タイトルにある「アンジェリカの微笑み」が、二度目にはずっとおそろしいものに見えたというのも発見でした。

 序盤で、イザクがファインダー越しにその死に顔を垣間見る場面や、現像した写真を眺めている場面でアンジェリカは微笑みますが、今回はどう考えても「天使」には見えませんでした。(微笑みに帯びた「美しさ」こそが、イザクに取りついて殺すための死霊の企みにしか見えないというのは言い過ぎでしょうか。)

 アンジェリカの屋敷や葬儀に使われた教会におけるカトリック的な意匠が、言うなれば「死者の魂」を鎮めるための技術として洗練されてきたことの反映であるとすれば、イザクの煩悶を通して映画のなかで露顕しているように見えるのは、むしろそのようなものではぜんぜん鎮まってくれない「死者の魂」の存在に対する堅固な生活実感なのではないか、というのが私の感想です。(それにしても、畑にいた子どもはイザクに何を見て、下宿にいた猫は鳥かごに何を見ていたのでしょうか。)

 

 この方向で研究を進めるためにはもっとずっと詳細な検証が必要になりますが、アンジェリカが結婚の前に妊娠をしていた可能性についてや、地域でも特に重要なお屋敷だと紹介されているにも関わらず主人が一度もきちんと登場していないということや、娘の葬式の後で母親がすぐに親戚とリスボンへ旅行しようとしていることや、そもそも姉が修道女であることなど、さまざまな細部にある種の「ロジック」が働いているように見えてきます。

 その上、アンジェリカの葬儀に顔を出しながら葬列行進を待たずにすぐさま飛び出したイザクが喜捨を施さなかったことに対して、物乞いが「旦那に神の報いあれ」と吐き捨てたことや、イザクの下宿の女主人が、飼っていた小鳥の死骸を手にして「この家は呪われている」「魔女の呪いではないか」などと口走ったりしたことについても筋道がつきそうですし、その同じ場面で別の下宿人が女主人に対して、死骸を永遠に保存するために「はく製にしたら?」と言いかけることにも、やはり同じ「ロジック」が働いているように私には見えます。(これについて本当は原語できちんとせりふの調査をしなければまともなことは言えないのですが、ある意図を持った物語がその「ロジック」に沿って登場人物にしゃべらせているとしたらという仮定の上での話です。)

 

 当然、こちらの本音としては、これこそが「ホラーのロジック」なのではないかと言いたいところなのですが、それについて具体的に考証するには実力不足ですので、ここでは補足としてただ思いつきをいくつか並べるだけになりました。

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