2015年11月30日

映画通信簿№11:『悪魔のいけにえ 公開40周年記念版』

・トビー・フーパー『悪魔のいけにえ 公開40周年記念版』

 (1974年、アメリカ)★⑤!!!

 

 これぞ映画のグラン・ギニョル。

 「狂人の凶行」を「狂気の表象」としてあますところなく描き出した、モダンな「悪魔」の実在論。

 

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 さて、今回紹介する映画は、トビー・フーパー監督の『悪魔のいけにえ』(以下『いけにえ』)です。

 ホラー映画が好きなわけではないがこのタイトルだけは聞いたことがあるという人もなかにはいるかもしれませんが、まさしくこれはホラー映画史に伝説を残した記念碑的な作品です。今年は、その公開40周年記念として、映像と音声をデジタル・リマスターされた特別版が公開されました。

 

 私もDVDで何度か見てはいるのですが、実際にスクリーンで見たのはこれが初めてだったので、やはりその迫力はぜんぜん別物なのだなと実感しました。上記したように修復というよりはむしろ改作に近い画質と音質は圧倒的で、もしかしたらそういった部分においてはもっとも出来の良い『いけにえ』になったのかもしれません。

 すでに旧作ですし、レンタルも十分に出回っているこのような作品のためにわざわざ映画館に行こうだなどと思わない人も多いかとは思いますが、この記事を読んで興味を持っていただけたら、今回の「公開40周年記念版ブルーレイ」を見てみるとこれまでよりもさらに迫力のある作品として楽しめるかもしれません。(リマスターの詳細などにつきましては以下の公式サイトをご参照ください。http://ikenie40.com/theater.html

 

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 今回の『いけにえ』40周年記念版のパンフレットで、映画ライターの高橋ヨシキさんは、「『悪魔のいけにえ』という狂人」というタイトルのコラムの冒頭で、次のような疑問を投げかけています。(以下は引用です。頁数表記なし。)

 

果たして『悪魔のいけにえ』について語るべきことが、いまだに残されているのだろうか?あるいはそもそも『悪魔のいけにえ』について我々は何かを語ることができるのだろうか?

 

 この映画も、おそらく「見ればわかる」という類の恐怖体験を惹き起こす作品ですので、見たあとにこれについてあれこれと詮索する必要が本当にあるのだろうかという問いかけだと思いますが、このような記事を書いているにも関わらず私もまさにそれはその通りだと考えています。(この「見ればわかる」については、映画通信簿№7で少し言及したことがあります。)

 

 つまり、これほど有名な作品であれば、見ようと思ったことのある人ならばたいていは見ているはずですし、もしホラー映画を毛嫌いする人であれば初めからもう見向きもしていないはずですから、「見ればわかる」こうした類の作品についてなにか目新しいことを言おうとするのは困難なことになるでしょう。

 ただ、このブログは、ふだんホラー映画を見ない人向けにオススメすることを目的としておりますので、「ちょっと見てみようかな」という気を起させるようなひと言をなんとかひねり出せないかという思いから、今回は書いてみることにいたします。

 

 

 ところで、昔のホラー映画のタイトルというのは、内容とどこまで関連づけるつもりがあるのかわからないようなものがいくつもあります。この『いけにえ』もその一つですが、原題はThe Texas Chain Saw Massacreで文字通り「テキサスでチェーンソー男が大虐殺」する話だということが明瞭に表現されていますし、そこには実は「悪魔」も「いけにえ」もまったく出てきておりません。

 邦題だけを見て、「悪魔のいけにえ」と聞いてしまうと、まるで悪魔崇拝のカルト集団が若い女性を儀式の生贄に捧げそうな感じがするかもしれません(『ローズマリーの赤ちゃん』のように)が、ここで言う「悪魔」は単純に「殺人鬼」の比喩になっていますので、この映画にいわゆる「悪魔憑き」のような形でさえ「悪魔」が出てくることは一切ありません(『エクソシスト』とは違って)。

 このことに関連して、『いけにえ』を語る上でもっとも重要なポイントの一つになるかと思いますが、チェーンソーを振り回して若い男女を虐殺しまくる「レザーフェイス」なる「殺人鬼」を邦題の発案者が思わず「悪魔」にたとえてしまったことこそが、後述のように大きな問題になってくるはずです。

 

*以下ネタバレする箇所があります。見る予定のある方はお気をつけください。

 

 ホラー映画はあまり好きではなく、とりあえずまだ『いけにえ』を見たいとはみじんも思っていないみなさんに、「ホラーのミ・カ・タ」としてオススメできそうな点をいくつか列挙してみたいと思います。(ちなみに「殺人鬼」というのはチェーンソーを振り回す「レザーフェイス」だけですが、彼は「のこぎり一家」の末弟になります。ほかにコックの長男とヒッチハイカーの次男とミイラの父がいて、通りすがりの旅行者を一家全員で餌食にしているという設定です。)

 

 

①「スプラッター」なシーンは予想以上にかなり少ない。

 

②「のこぎり一家」は「殺戮」よりも「嫌がらせ」に時間をかける。

 

③これらの行為についてどんな動機づけもなにひとつ示されない。

 

 

 まず①に関してですが、このブログでさんざん推薦してきた『ムカデ人間』シリーズに比べれば、この映画の「スプラッター」表現はごく控えめなものになっていると言うことができます。

 しかも、トビー・フーパー監督の配慮なのか、「殺戮」そのものを真正面から撮影しているシーンはほぼ皆無と言って良いでしょう。

 

 つまり、この映画は残虐なシーンそのもので観客を不快にさせないように、たいへん奥ゆかしい心配りがなされているように見えるということなのです。

 あの「ジェイソン」や「フレディ」の登場する作品は、その点で悪意を持っているようにしか見えないのですが、チェーンソーでの「殺戮」をあえて背後からのショットで捉えてみたり、ハンマーでの撲殺の瞬間にあえてカメラを逸らしてみたりするのは、いわゆる「スラッシャー映画」らしからぬ紳士的な振る舞いだと言えるのではないでしょうか。

 

 

 次に②に関して、この映画も「ジャンル・ホラー」の定石通り、最後にやはりヒロインが一人だけ生き残ることになります。

 ただ、ほかの若者たちがかなり速やかに犠牲になってしまうのに対して、「のこぎり一家」に拉致されたヒロインは、彼らから執拗な嫌がらせを受けます。(しかも彼らがおもしろがること以外になんの目的もなさそうな、その上なにか子どもじみた悪ふざけのようにも見えるこうした場面は、①と対照的に、かなり時間をかけてたっぷりと展開されていきます。(実は今回の鑑賞で、報告№1で言及したミヒャエル・ハネケ監督の『ファニー・ゲーム』との接点が数多く見つかったのは本当に嬉しい驚きだったのですが、こうした点もその一つです。)

 

 この嫌がらせの途中でヒロインに逃げられてしまったあとも、「のこぎり一家」の次兄の方は足を引きずっているヒロインに追いついていながらあえて捕まえようともせず、逃げ惑う彼女をからかいながらふざけて追いかけていきます。

 そのあと彼がどうなるかはここでは書きませんが、初めて見た人はきっとあっと驚くことでしょう。

 

 

 そして、最後に③なのですが、これこそが『いけにえ』を「映画のグラン・ギニョル」と言いたくなる所以です。(ちなみにこの「グラン・ギニョル」というのは、フランスで恐怖を売り物にした「ジャンル・ホラー」演劇を創始した劇場の名前です。この劇場の詳細につきましては、下記URLからPDFファイルをダウンロードできますので、もしご興味があれば、「博士論文」第四章第一節「グラン・ギニョルらしさをめぐって」をご参照ください。http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/handle/10097/58739

 

 ここからは、なかなかひと言で説明しにくい内容で恐縮なのですが、「狂人の凶行」を「狂気の表象」として舞台上で描き出そうとした世界で初めてのホラー演劇が、この「グラン・ギニョル」であったと言われているということをひとまず引き受けてください。

 もう少し厳密に言うと、当時西欧で最先端であったとされるフランスの精神医学によって、「狂気」というのが今で言うところの精神疾患の症状として「発見」されたのが19世紀だとすると、こうした精神医学の研究成果を見事に取り込んで「狂人」の殺人事件を演劇のジャンルにしたのが、この「グラン・ギニョル」だったということです。

 つまり、「狂気」を「精神異常」として「科学的に」解釈することができるようになった、ということを踏まえてフランスで初の「ジャンル・ホラー」演劇が創出されたということになります。(ちなみにここで使う「狂気」や「精神異常」という用語はすべてフランスの原語に由来する文脈を踏まえた、歴史的な言葉遣いであることをご了承ください。このように解釈される前まで、「狂気」は「悪魔」の仕業であると解釈されることが多々ありました。このことについてはミシェル・フーコー編著の『ピエール・リヴィエール』が抜群の参考資料になります。)

 

 ところで、前回「概念の開示」ということを書きましたが、グラン・ギニョルはこうして「狂人の凶行」(言い換えれば「精神異常者の人殺し」を主題とする戯曲)を上演することによって「狂気」を表象し、「狂気」という概念が開示することによって生じる恐怖の体験を観衆に提供することを専売特許にした劇場だったということになります。

 これがどれほどの恐怖だったかというのは、現在の私たちはなかなか想像ができませんが、観客のなかには失神や嘔吐といった拒否反応を示した人がいたという伝説もありますので、グラン・ギニョルでの演劇体験は当時のヨーロッパにおいて間違いなく新奇なものだったようです。(このことの詳細については、学術書ではありませんが、『クライヴ・バーカーのホラー大全』にかなり強烈な紹介記事が掲載されています。)

 

 

 話を『いけにえ』に戻しましょう。

 

 このようなグラン・ギニョルの歴史を踏まえた上で、私がこの作品について抱く個人的な見解としては、まさにかの演劇が舞台上で提供していたものと同じような意味で、「狂人の凶行」をまさに「狂気」そのものとして、観客が共有しているはずの合理的な判断ではとうてい理解不可能な「狂気」をまさに「見ればわかる」類の現象として描き切ったところにこの映画の特異な新奇さがあったのではないか、と考えています。

 もちろんこんなことは、グラン・ギニョルの話を抜きにすれば、おそらくどこかで誰かが言っている『いけにえ』評となんの代わり映えもしない内容なのかもしれません。(『いけにえ』とグラン・ギニョルを結びつける意見も目新しいものではないでしょう。)

 

 重要な点は、誰にとっても「見ればわかる」ような「狂気の表象」として『いけにえ』が成功した理由はなんなのかということになるのですが、もし今後『いけにえ』について新しくなにか語るべきことがあるとすれば、こうした点を深めるべきなのではないか、というのがここでのまとめになります。

 

 私が不勉強なだけで、このことについて実はもうすでに解明しつくされているのかもしれませんが、こうした『いけにえ』の非合理性がもし本当に論理的に説明しつくされているとすれば、「テキサスでチェーンソー男が大虐殺」のような話を実際のニュースで耳にすることが、それ以来まったくなくなったという事態が起こっていても良さそうなものなのに、と思うのですがいかがでしょうか。

 現実には、まだまだそのようなところからほど遠いのだとすれば、公開後40周年も経過しようが、『いけにえ』には研究の余地が山ほど残っていると考えて、見る価値が衰えることはこれからもなさそうだという気がしてきます。

 もしもこの作品が、まだ誰も論理的に説明できていないようなことを映像として明確に表現してしまったということであれば、それこそが『いけにえ』の魅力の本質に近い部分になるのかもしれません。

 

 

 最後に余談ですが、グラン・ギニョルの代表的な作家で「恐怖の申し子」と呼ばれたアンドレ・ド・ロルドは、1930年代当時のパリにおける「狂気」と精神医学の関係性について、次のようなことを言っています。(これは引用ではなく私の要約です。)

 

 なぜその人がそのとき「狂気」に陥らなければならないのか、という根本原因は科学では解明できない領域のことであり、現在の精神医学はその点で患者の根治療法にはまったく貢献できていないのだから、人間の内面の奥深くには、科学を超えたものとして、エドガー・ポーが予見していた意味で「悪魔」のようなものが存在すると考えた方が良いのではないだろうか。

 

 このようにしてド・ロルドは、科学的な精神医学が否認して克服したはずの「悪魔」という言葉をあえて引っぱり出してきて、「狂気」の根本原因を説明する言葉として提案します。(その上で彼は、「ホラー演劇」はこの点に関して「狂気」について大衆を啓蒙しているし、精神医学の発達にも貢献しているとまで豪語します。)

 

 

 グラン・ギニョルを研究してきた私としては、ド・ロルドのこの見解は、邦題が「悪魔」の「いけにえ」でなければいけない理由と、どこかではるかに共鳴し合っているような気がして、紹介せずにはいられませんでした。

 彼によれば、「狂人の凶行」というのは、まさに「悪魔」の実在を証明する現象以外のなにものでもなく、聖職者にも祓うことができないし、精神科医にも治すことのできないこのモダンな「悪魔」こそが、宗教も科学も超えた今日的な恐怖の対象なのだということになるのですが、『いけにえ』の恐怖というのもこのような観点から見てみるとおもしろいのではないかというのが、現時点での私の感想です。(宗教と科学の超越という同じ観点から、ハーシェル・ゴードン・ルイス監督の伝説のゴア・フィルム『血の祝祭日』を見てみるのもかなり興味深いと思うのですが、こちらは「スプラッター」表現満載なので、残念ながら苦手な人にはオススメできません。)

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