2015年10月4日

読書感想文№3:『ホラー小説でめぐる「現代文学論」』

・高橋敏夫『ホラー小説でめぐる「現代文学論」』

 (2007年、宝島社新書)

 

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 さて、今回紹介するのは高橋敏夫さんの『ホラー小説でめぐる「現代文学論」』(以下『ホラー小説でめぐる』)という本です。

 「ホラーのミ・カ・タ」はホラー映画に特化した映画批評ブログですので、映画以外の作品にはあまり言及することができません。そこで、今回は「現代日本文学」に関するホラー研究書を紹介することで、ホラー映画に興味はないけど日本のホラー小説なら読みたいという方のニーズに応えていきたいと思います。

 

 著者の高橋先生は早稲田大学文学部・大学院の教授で、この本の帯には早大学生アンケートで「一番おもしろい授業」という触れ込みがあり、実際この本は早大の講義録を一般社会人向けに新書化したものであることが書かれています。

 私も、ホラー研究者の端くれとして、大学教員の職に就いていつか「ホラー講義」をすることを志す者ですが、この本を読み直すたびに、ホラー小説の講義が早稲田大学で「一番おもしろい授業」に選ばれるという事実に心から驚嘆するとともに、高橋先生の文学論が抉り出す現代社会のホラー性という問題の今日性について、あらためて感服せざるをえないというのが率直な感想です。

 

 ごく個人的な実感で本当に恐縮なのですが、どのようなジャンルの作品を取り扱うにしろ、おそらくホラー研究というものは進めれば進めるほど「ホラー化する現代社会」というテーマがどんどん現実味を帯びて押し迫ってくるのではないかと思います。

 あとでまた詳しく触れますが、高橋先生はこの本のなかで、1995年以後にホラー・ブームがあって2000年前後がそのピークであったということを指摘なさっていて、そこでは「壊れ」という言葉がこの時代を象徴するキーワードとして採用されています。

 現在から振り返って見てみれば、この本が出版された2007年以降も「壊れ」という現象はますます加速し、激化しているだろうし、2011年の東日本大震災を経て、それまで「壊れ」という言葉が指示してきた内容というのも、ここに来てさらに大きく変容しているかもしれないというのが、私の、これもごく私的な印象です。(この点について、現在では「壊れ」という言葉では指示しきれないところで、結果としての「壊れ」がそのようなものとして可視化するはるか前のところで事態が深刻化しているのではないか、もし仮にそうだとするならば他にどのような言葉を選べばよいのだろうか、という問いもまた、私は常に自分自身の課題として念頭に置いています。)

 

 もちろん、ホラー研究は現代社会を考察する上で喫緊の要件である、と本気で思っている人などおそらくいてもほんのわずかに過ぎないということは痛いほどよくわかっているのですが、ホラー研究をすることの意義を強調している本書を、私としてはある種のマニフェストとしてここで紹介したいと思い今回取り上げることにしました。(ホラー研究者がいたずらにみなさんの危機感を煽ってはいけないのですが、研究の前提にこのような危機感があるということについて、納得しないまでも承知していただければと思います。)

 

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 『ホラー小説でめぐる』の冒頭において、高橋先生は「ホラー」と「テラー」の違いを次のように説明しています。(以下(~頁)は引用です。)

 

ここでのホラーは、主として「ホラー小説」。ホラー(horror)とは恐怖ですが、テラー(terror)の畏怖にたいして、生理的な嫌悪感からくる「おぞましさ」を意味します。「畏怖」が自分を超えた外部への恐怖であるのにくらべると、「おぞましさ」は自分をふくむ内部への恐怖です。ホラーは外部を失ってしまった時代の恐怖と言えるでしょう。(6頁)

 

 おそらく、ホラー研究者の誰もが、この「ホラー」と「テラー」の概念の区別や、日本語の「恐怖」とその類語(例えば「畏怖」)との意味論的な差異については、ずいぶん頭を悩ませてきたと思います。

 私自身この引用文については、「ホラー」とは生理的な嫌悪感からくる「おぞましさ」であるという意見には全面的に賛成です。まさにその通りだと思っていて、実際、翻訳などをするときには、”horrible”を「おぞましい」と訳すことが多い気がします。

 

 ただ、”terror”を「畏怖」と訳すことには、宗教学者としてやや疑問を感じています。私の専門分野では、宗教的な恐怖を「畏怖」や「畏れ」と言いますが、そのような感情をいわゆる一般的な恐怖と区別して定義しようという学説があります。そのためたとえこの学説を批判的に検討するにせよ、やはり「宗教的な恐怖」=「畏怖」という用語でとりあえず設定しておいた方が議論を進めやすいことが多いのです。ちなみに、その文脈で「畏怖」を英語にすると”awe”が当てはまります。

 個人的に、”terrible”は「おそろしい」と訳すことが多いのですが、そうすると「テラー(terror)」は「おそろしさ」になってしまうため、「恐怖」との違いが日本語の上で明確にならないという難点があります。もし仮に漢字で意味内容を区別して指示するならば、「ホラー」=「嫌悪」に対して「テラー」=「恐懼」(「きょうく」と読みます。「懼」という語はびくびく、おどおどすることを意味する漢字で、この熟語は広辞苑に載っています。)としたいところなのですが、定義を厳密にしようとすればするほど用語がマニアックになっていきますので、そこまではあえて明確にしない場合もあります。

 ところで、引用文にありますように、「テラー」が「自分を超えた外部への恐怖」で、「ホラー」が「自分を含む内部への恐怖」であるという区別には基本的に賛成です。

 

 

 用語にまつわる細かしい議論はひとまず置いて、話は『ホラー小説でめぐる』に戻しますが、高橋先生はこの本のなかで数多くのホラー作品を紹介しています。

 残念ながらすべてを紹介することはできませんので、興味のある方はぜひ実際に手に取っていただきたいのですが、ここではとりあえず写真入りで解説されている作品のみを列挙してみます。(書誌データはすべて引用です。)

 

・岡崎京子『リバーズ・エッジ』(2001年、宝島社)

・しりあがり寿『ア○ス』(2002年、ソフトマジック)

・岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』(1999年、角川書店)

・ジョージ・A・ロメロ『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年、アメリカ)

・トビー・フーパー『悪魔のいけにえ』(1974年、アメリカ)

・中里大介『大菩薩峠』(1995年、ちくま文庫)

・貴志裕介『黒い家』(1998年、角川ホラー文庫)

・桐野夏生『OUT』(1997年、講談社)

・村上龍『イン・ザ・ミソ・スープ』(1997年、読売新聞社)

・宮部みゆき『模倣犯』(2001年、小学館)

・村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』(2000年、新潮社)

・高見広春『バトル・ロワイヤル』(1999年、大田出版)

 

 この本では世界的な情勢の変化との関連でホラー作品の文脈化がなされていますので、なぜいま「ホラー」なのか、なぜいま「壊れ」の時代なのかということが、日本の文学界におけるホラー小説の隆盛との兼ね合いで詳細に論じられることになります。

 私は日本文学の専門家ではありませんので、日本のホラー小説における恐怖ということについては語ることはできませんが、上のリストのなかであれば、(マンガと映画を別にすると)やはり岩井志麻子さんの『ぼっけえ、きょうてえ』が群を抜いて怖いんじゃないかなというのが、ごくごく個人的な感想です。(ちなみに『夜啼きの森』(2001)はさらにもっと怖いと思います。)

 

 

 このブログはいつも、書いていると予定より長くなりすぎて困るのですが、最後に、『ホラー小説でめぐる』のなかから、特に70年代のアメリカでホラー映画が勃興したことに関連して指摘されている記述を、やや長いですが引用して、それからひと言書いて締めたいと思います。(以下(~頁)は引用です。)

 

 恐怖と訳されるホラー(horror)という言葉は、恐怖を意味する類語(fear, dread, terror, panicなど)とくらべれば、恐怖は恐怖でもつよい嫌悪感をともなう恐怖をさす。

 それは、スリリングな恐怖や、慌てふためく恐怖や、遊園地的な爽快なる恐怖といったものからは遠い、「おぞましさ」「まがまがしさ」がきわだつ恐怖、マンガの擬音では「げぼげぼ、ゲロゲロ、ゲゲェッ」といった、ぞっとする恐怖なのである。

 ジャンルを問わない近年のホラー・ブームにあっては、恐怖の要素がわずかでも含まれていればなんでも「ホラーもの」になってしまうのだが、ホラーという恐怖の核心に「ぞっとするおぞましさ」があることを確認しておいたほうがよい。そして、わたしたちがもっともおぞましく感じるのは、わたしたちの身体的変形あるいは内破、すなわち身体の破壊と血と内臓などの外部への流出あるいは散乱(のイメージ)であるということも。

 それを確認してはじめて、わたしたちがそうした「ぐちゃぐちゃで血みどろのおぞましさ」に惹きつけられ、魅せられてしまうという「奇妙さ」がうかびあがるからである。いったいこれはどうしたことか、と世の常識家たちが嘆きつづけてきたのは言うまでもない。〔中略〕

 それら〔=ホラー映画の傑作〕は、わたしたちの感情の中に「おぞましさ」の領域を実感させるとともに、これなしにはわたしたちの感情世界がゆがみ、むしろ奇妙なものになってしまうといった思いをいだかせるのである。悦びや、楽しみや、哀しみや、苦しみや、おかしみとならんで、おぞましき恐怖もまたわたしたちの感情のひとつであり、しかも、強烈な感情においては、それらのすべての感情がわかちがたくむすびつき、わたしたちを根底から揺さぶり動かす――たとえば、血しぶきを浴びたホラーがまったく別の生への狂おしい希求とかさなりもする、ということを教えてくれる。それらの作品がしだいに宗教的な趣を呈しはじめるのも、けっして不思議ではない。

 ホラー映画の愚作は逆に、「おぞましさ」という感情を偶然でその場限りのものとして、わたしたちの外に押しやってしまう。映画の前と後の「わたし」は変わらないどころか、ますますわたしは常識的で退屈な「わたし」に閉じこめられてしまう。ホラーものを口を極めて非難する常識家は、じつは、とるにたらないホラー映画の熱烈な支持者なのである。(56-59頁)

 

 これを読んでホラー愛好家になったみなさんには、この引用文の〔中略〕で挙がっているホラー映画の傑作が何なのかをご自身の目で確かめていただけたらと思います。

 そして、このブログの愛読者の方(もし万が一いたとしてですが)は、報告№1の「ジャンル・ホラー」と「リアル・ホラー」の区別を想起してもらえると喜ばしい限りです。引用文が指摘している「ホラー映画の愚作」は「ジャンル・ホラー」の作品であることが非常に多いのですが、「ホラー映画の傑作」は「リアル・ホラー」の作品であるとともに必ずしも「ジャンル・ホラー」であるとは限らないというのが、 「ホラーのミ・カ・タ」の大前提になっています。(また、「ホラー」が根源的に吐き気を催させるもの、内臓的なものであるという認識にも、私は完全に共感しております。)

 

 私もまたホラー研究者の端くれとして、現代社会への危機意識に裏づけられたこのような「ホラー・マニフェスト」に心から賛同するものであります。

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