2015年9月8日

報告№2:日本宗教学会第74回学術大会

 

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 書いている時点で先週末になりますが、9月6日に、私が所属する日本宗教学会という日本の宗教学最大規模の学会において、「ロベール・ブレッソン『少女ムシェット』における唾棄すべきもの」というタイトルで発表をしてきました。(この報告の内容は、後日日本宗教学会のHPにアップされます。)

 

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 「宗教学」というのはおそらくかなりマイナーな学問分野なので、このブログで初めてその名前を聞いた方のなかには、「なにそれ?」とか「あやしい」といったリアクションもあるのではないかと思います。

 このブログは映画批評を目的としていますが、書き手の専門研究の内容にちょっと触れることでほんの少しでも公開性が高まればと思い、今回は簡単にそういったことを書いてみます。

 

 

 例えば、仏教学とかキリスト教学とか言われれば、「仏教」や「キリスト教」の研究をするのだな、とみなさんは納得すると思います。しかし、「宗教学」は、その名の通り「宗教」を研究するのですから、「そもそも宗教ってなに?」というところから問題になってくるとしても不思議ではありません。

 

 ちなみに、私が東北大学の修士課程に入学したのは2003年になりますので、いわゆる「研究」というものをするための下積みをこの時点から開始したということにしても、まだたった12年しか従事していない「若手」になります。(学問の世界というのは、どこも先達の「大御所」がたいへんたくさんいらっしゃいます。)

 院生時代が「前座」だとすると、稼ぎも仕事も継続的には安定しない状態で独り立ちすることになる博士課程修了後(いわゆる「ポスドク」)は、落語の世界で言うと、おそらく「二ツ目」に当たるのではないかと思います。「二ツ目貧乏」という言葉を噺家さん自身が言っているのを聞いたことがありますが、水月昭道さんの『高学歴ワーキングプア』(2007)という身につまされるような著書もあります。(先日も新聞紙上で話題になっていましたが、私にとって身近な人文系の研究者の処遇に限って言っても、この本の出版された2007年以降に好転する兆しはいっさいなく、むしろ悪化の一途を辿っているというのが現状かもしれません。)

 

 この方向であまりにも話がずれていくと修正できなくなりますので戻しますが、私は学部生のときからずっと「宗教学」研究室に所属しておりましたので、この学問分野になんの違和感もないのですが、いざ「なんの研究をする領域なのか?」と聞かれると、個々人の研究者のやっていることがかなりばらついていますので、ひと言で説明するのが途端に困難になってしまいます。

 これは、いろいろなところでうかがったお話をまとめたような言い方ですが、「哲学の真善美」に対して「聖」に専念して探究する学問分野なのではないか、と個人的には考えています。(もちろん「真善美」にプラスして「聖」も哲学の対象になることがあるのも承知の上で、このように考えます。ちなみに、「宗教学」というのは、あるところでは「哲学」の仲間に入ったり別のところでは「社会学」の仲間に入ったりと、それぞれの大学や研究機関の制度上の位置づけにも確固たるところがなかったりします。)

 

 

 ということで私は、映画作品を対象に「聖」というものを考えるとしたらどんな可能性があるか、ということを研究のテーマにしています。(例えば、演劇、小説、絵画、写真におけるような芸術形式と共通する部分や異なる部分を明確にしながら、映画体験に独特な「聖」というものがありうるかどうかという問題です。もしもありえないとすれば、なにを根拠になぜそう言えるのかということでもあります。)

 そこから、今回の学会発表でも取り扱ったように、映画体験における「聖」というものを考える上でもっともふさわしい対象として、ロベール・ブレッソンの作品を取り上げ、そのことについて研究を継続していこうと思っているような状況です。(現在デジタル・リマスター上映で公開中の『やさしい女』はいつか映画通信簿で紹介する予定です。)

 

 どんな学問分野にも「古典」と呼ばれる重要な本があるのですが、宗教学の場合、そうした著作の多くには特にヨーロッパの学者や思想家による「聖」という概念の探究が含まれています。

 たとえ彼らが他の地域を差別しているように見えるとしても、そうした「差別」の根本を知るためにはやはりどうしても読まなければいけなくなるような本が「古典」なのでしょう。個々の学者や思想家が歴史上において「差別」に加担しているように見えるとしても、どのような論理に従ってそのように行動しているのかを、読者一人ひとりが自分なりに筋道を立てて明らかにしない限り、そう言う自分がまた新しい別の差別にいつの間にか加担してしまう恐れがたぶんにあるため、人文系の学問分野では、このようなめんどくさいことを時間をかけていつも必ずしなければならないのだろうなと勝手に思っています。

 

 特に私は「畏れ」の研究をしておりますので、あらゆる差別意識に対してはひと際敏感でありたいと常に心がけているつもりです。差別をしない人間というのは私を含めて誰ひとりいないわけですが、そのように差別をする必然性がどこにあるのかを可能な限り具体化して、論理的に明確にしていこうと考えているということです。

 

 

 いつもこのブログでは途中で話が込み入ってきて、最初に提示した内容に踏み込む直前で、そこにたどり着いたかどうかというところで終わってしまうような気がしてやや気が引けるのですが、今回もやはりそのような形で締めておきたいと思います。

 

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