2015年8月20日

映画通信簿№1:『彼は秘密の女ともだち』

・フランソワ・オゾン『彼は秘密の女ともだち』

 (2014年、フランス)★⑤!!!

 

 これぞ正真正銘の「おとこhomme」ホラー。

 (「男性」の)観客の 「性同一性」を根柢から揺さぶり、本気で危機に陥れようとしている。 

 

 *  *  *

 

 ところで、このブログは映画批評をするために開いたものですが、特に速報性を重視しているわけではありません。

 プロフィールにもありますように、月に一度か二度くらいなら映画館に行くという人を対象に、もし良かったらどうですかとオススメすることを目的としています。そのため、このブログの紹介を見て、DVDを借りてみたらおもしろかったので次回作は映画館で見てみるか、と思ってもらえたら実はそれで十分なのであって、現在上映中の映画の批評だからといって今すぐ劇場に見に行って欲しいと思っているわけではありません。(もちろんそうしてもらえたら本当に喜ばしい限りなのですが。)

 

 さらに、★の数は私の個人的な好みとは必ずしも一致しません。

 あくまで、映画館にあまり行かない人へのオススメ度を私なりに判断して評価しています。つまり、★③というのが興味のない人にはオススメしないボーダー・ラインになっているということです。(どんな映画でも、興味のある人ならオススメしなくても勝手に見に行くと思いますので。)

 そこで★④以上というのは、オススメする私がどうしても語りたい、ぜひとも語らねばと思う内容が発見できた場合にのみ、つけることにしています。だから例えば★①の作品というのも、誰にとっても絶対的につまらないかどうかはわからないが、私の映画経験において推薦できる言葉をなに一つ見つけることができなかった、という意味でオススメ度が低いのであって、それは単に私の実力不足が原因である可能性も大いにあるということです。 

 

 説明がくどくなってしまいましたが、今回が第一回目ですので、念のため。

 

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  さて、今回は、フランソワ・オゾン監督の最新作『彼は秘密の女ともだち』(2014年、以下『女ともだち』)を紹介します。この作品が文句なく★⑤!!!である理由を以下の文章で明らかにしていくのですが、まずは見終わったあとの衝撃を率直に告白しておきたいと思います。

 

 私は「見なきゃ良かった」と思えるような作品こそ「ホラー」の名にふさわしい、と常々思っております。映画館に前もって持ち込んだ常識とか当たり前のようなものを多かれ少なかれ揺るがすような、見たことによって自分の中にある譲れなかったはずの何かが壊されるような、そんな体験を提供してくれるような作品こそが正真正銘の「リアル・ホラー」である、とそのように考えております。

 

 そして、こうした意味において、オゾンの最新作は紛れもないホラー映画であると私は思います。「良い」とか「悪い」とかの前に、見終わってから、私はなぜかふらふらとして劇場をあとにしました。この感覚はいつか見た映画に似ているなぁと思いながら。それは、ベアトリス・ダルの怪演で知られる『屋敷女』(2007)を見たあとの感覚とほぼ同じでした。そのとき私は仙台に住んでいて桜井薬局セントラルホールという映画館で見たのですが、やはりふらふらして「えらいもんを見せられた」、「なんてこった」などと思いつつ、なかば自動的にパンフレットを買いに向かったことを覚えています。

 町山智浩さんの本のタイトルになぞらえれば「トラウマ映画」と呼んで差し支えないかと思いますが、そう呼ぶしかないような精神的なショックを、私は『屋敷女』から受けました。そして、まさしく今回のオゾンの映画も同じような意味で「トラウマ映画」だったのだ、と私は実感しております。(物語の概要については公式サイトをご覧ください。http://unifrance.jp/festival/2015/films/film04

 

 

*以下ネタバレする箇所があります。見る予定のある方はお気をつけください。

 

 主要な登場人物は四人です。主人公クレールとその夫ジル、クレールの親友ローラとその夫ダヴィッドです。ただ、ローラは冒頭で亡くなってしまうですが、そう言うとこれまでのオゾンの作品をご覧になった方であればすぐさま、夫を海で見失って、そのあと姿無き夫の幻影を追いかけ続ける妻を描いた『まぼろし』(2000)を思い浮かべることでしょう。今回の『女ともだち』も、ローラを失ったクレールとダヴィッドによる「喪の仕事」あるいは「グリーフ・ケア」が物語の軸になっていると見てまず問題ないでしょう。

 

 ところで、タイトルにある「彼」とはダヴィッドのことですが、彼が「女ともだち」であるのは、女装癖があるからなのです。ローラとの結婚までもともと女装癖を持っていたというダヴィッドは、ローラの死をきっかけに、娘リュシーの母親代わりをするつもりで、女装を再開しています。その姿を偶然クレールに目撃されたダヴィッドは、「倒錯者」としてリュシーの親権を義父母に剥奪されないためにもこのことは「秘密」にしておいて欲しいと頼みます。こうしてダヴィッドは、クレールが「ヴィルジニア」と名づけた「秘密の女ともだち」になります。

 このような共犯関係が成立したことによって、幼い頃からの親友であったローラを失ったことでクレールの人間関係のなかにぽっかりと大きく空いてしまっていた穴に、ヴィルジニアがすっかりと嵌まり込んだかのように見えます。また、最愛の妻であるローラを失ったことでダヴィッドの家庭から抜け落ちてしまっていた母親という存在を、ヴィルジニアが肩代わりしようとしているかのようにも見えます。とにかく、二人は「女ともだち」同士として急速に接近していきます。

 

 

 ただ、ここで気をつけなければいけないのは、物語において周到に設定されているように、ダヴィッドは、パートナーとして男性を求めるいわゆる「同性愛者」ではありません。「女装癖」の持ち主であるだけでなく、彼自身「私は女だ」というアイデンティティを「美しさ」によって公に誇示しようとしていますが、「性同一性」に苦しんでいる様子も一切ありません。しかも、彼は「ヴィルジニア」のまま、そしておそらく「ヴィルジニア」として、クレールと性的な関係を結ぼうとさえします。

 そもそもローラとの関係において、妻の「女らしさ」によって、ダヴィッドは女装をしませんでした。ローラを喪失した今、彼は再び「女」として目覚め、今度は「ヴィルジニア」として人生をやり直そうとする過程で、クレールに心惹かれていくという筋立てです。

 

 また、クレールの方も「ヴィルジニア」と付き合うことで徐々に「女らしさ」に目覚めていき、カジュアルなだけの地味な服から派手な赤のワンピースを買ったりします。

 さらにクレールは、幼い頃にローラと過ごした彼女の旧家をヴィルジニアと訪れるに及んで、自分がかつてローラに対して淡く抱いていた同性愛的な傾向に直面することになります。あるいはそれは、クレールがヴィルジニアと出会ったことによって新たに作り出された傾向なのかもしれませんが、このようにしてローラとの思い出に触発されながら、彼女は結果としてヴィルジニアへの想いを深めていくことになります。 

 

 ここで、ぜひみなさんに考えていただきたいのですが、ダヴィッド=ヴィルジニアは「おとこhomme」なのでしょうか、それとも「おんなfemme」なのでしょうか。

 肉体はもちろん男性です。そして精神的にはおそらく女性のようです。女装することで、言わば肉体を女性に仮装することによって、肉体と精神に齟齬を来す様子は今のところありません。

 彼=彼女は、ローラとの関係においては女装することなく、夫婦の関係を築き上げていました。つまり夫=男の社会的な役割を引き受けていて、もちろん表面上かもしれませんが、そこでもアイデンティティの危機はなかったように見えます。

 しかし彼=彼女は、クレールとの関係において、もはやダヴィッドに戻ることはできません。ヴィルジニアとして、つまり、肉体的には男と女になりますがおそらく精神的には女と女、言うなれば「レズビアン」として、クレールとの交渉を果たそうとするのです。一見したところ、彼=彼女においてこの点に障害はなさそうです。(映画における本人の言い分をそのまま鵜呑みにするという条件ではそうなります。)

 

 

 映画の途中の物語はすっ飛ばして、そろそろ結論に向かいます。

 もちろんダヴィッド=ヴィルジニアの振る舞い方について、「妻の死によって本当の自分らしさに目覚め、自由を謳歌しているのだ」と言い表すことは可能かと思います。しかし私は、この「自由さ」に底知れない不安を感じました。というのも、この物語が裏のメッセージとして、「性同一性には根拠などなく、いつでも相手との関係性によって決まるのだ」ということを高らかに宣言しているように聞こえたからです。しかも「人生のいついかなる段階でも変更できるのだから、今からでも遅くない」と観客(特に自分に「男性性」を認めている人びと)に対して呼びかけているように聞こえたからです。

 

 事実、オゾンはパンフレットに掲載されているインタビューで、この作品の企画書に「私が本作で目指すのは、映画を見終わったすべての男性がストッキングや化粧品、ドレスを買いに走ること。妻のためではなく、自分自身のために。」と書いたと述べています。これは、この映画によってあわよくば「男性」を自認する観客の「性同一性」を揺さぶることができるはずだ、と監督が確信犯的に考えていたということでしょう。

 私はおそらく見終わったあと、本気でこの意図に絡め取られて不安に駆られたために、ふらふらとしたのではないかと思っています。見に行った劇場が名古屋パルコの最上階にあるセンチュリーシネマだったのですが、もしレイトショーでなければ、帰りにストッキングとか化粧品とかドレスとか買わされる羽目になっていたのだろうかと思うと、今でも少しぞっとします。

 

 

 ちなみに、ここまでまったく触れて来なかったクレールの夫ジルについてなのですが、実は『女ともだち』のラスト・シーンをどう解釈するかによって、彼への評価もまたかなり違ったものになります。

 ネタバレ中のネタバレになるのかもしれませんが、クレールはヴィルジニアと旅行に行ったことのいいわけとして、ダヴィッドが「同性愛者」でその相談を受けたとジルに嘘をつきます。そのことについてダヴィッドは苦々しい思いをするのですが(もちろん彼は「女」ですから)、ジルは「最近多いからね」なんてことを言います。そして、そのあとの物語の展開としては、クレールはヴィルジニアとの関係を断ち切ろうとするのですが、ジルが夫婦のテニスにわざわざダヴィッドを誘ったりしたために、クレールはそこで夫が実はダヴィッドとシャワー室で性交に耽っているという妄想をするのです。

 これは確かに、上記のような経緯から、クレールの同性愛的傾向を裏返して、二人に投影した場面のようにも見えます。しかし、細かい点をいちいち取り上げませんが、『ふたりの5つの分かれ路』(2004)や『ぼくを葬る』(2005)などを見たことがあるならば、ダヴィッドが「同性愛者」だと聞いたあとのあらゆる場面から、ジルが同性愛的傾向をどんどん強めていったことは容易に想像がつくのではないでしょうか。ここでは、彼もまたダヴィッドのように、もともと持っていた性質を目覚めさせただけなのか、それともクレールとヴィルジニアの関係が深まったことによってクレールとジルとの関係やジルとダヴィッドとの関係もまた変化を余儀なくされた結果なのかはわかりませんが、これが疑惑の残るラスト・シーンに対する私なりの解釈になります。(ただ、ジルについてはダヴィッド=ヴィルジニアのような「倒錯」が語られることはありません。)

 

 

 第一回映画通信簿は以上です。思った以上に長文になってしまいました。

 もっとさらっと書いていけると良かったのですが、見てない人が見たくなる、見た人ももう一度見たくなる、そんな文章になっていればと願っています。

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